称徳天皇の御代に弓削道鏡による皇位簒奪未遂事件が起きてのち、800年にわたって、女帝の即位そのものが途絶え、皇統は男系男子継承のルールを確固としたものとします。
しかし、時は下って江戸時代、朝廷の「権威」と幕府の「権力」との確執がもたらした、新たな危機を乗り切るため、再び、即位を要請された女帝がいらっしゃいました。
元正天皇、孝謙・称徳天皇につづく、未婚≒生涯独身の女帝です。
即位事情のあらましは、すでにこちらでも述べていますが、動画にもある通り、後水尾天皇からの譲位には、徳川の外戚化を防ぐという明確な目的がありました。
女帝は生涯独身を強いられます。
これは個人としては過酷な運命かもしれません。
それでもなお、そうしていただかなければならない合理的な理由がありうることは、こちらで元正天皇のケースについて考察してみたことがあります。
血統の原理や、男系継承の重みについては、言わずもがなでしょう。
万一、女帝の結婚・出産が認められてしまえば、その皇子は実は皇子ではなく、(皇統において伝統的に優先される男系の血筋においては)臣籍の男子にすぎないと観念されざるをえません。
万々一その「皇子」が践祚するような悪夢が現実になれば、それは臣籍男子による皇位の簒奪以外のものではありえません。
反日勢力は時に男系継承を“男女差別”であるなどとも喚くことがあるようですが、しかし、そもそも、女性皇族ご自身はそんなに天皇になりたいのでしょうか?
皇位につくというのは、それほど望ましいことなのですか?
皇位につけば“甘い汁”でも吸えるのですか?
それこそ不敬かつ愚かきわまりない勘違いでしょう。
こちらで述べた通り、天皇であることとは、幼稚な“権力欲”の充足どころか、神聖な義務以外の何物でもないのですから。
皇統護持のために生涯独身という責務を負いたまう女帝にとって、それはとりわけ過酷な義務になるかもしれません。
老成されてから、子や孫への「中継ぎ」のために即位された初期の女帝と違って、初めから皇太子と定められ(その時点で独身を運命づけられ)たうえ、後継者を道祖王(新田部親王の皇子、天武天皇の孫)と定められてしまった孝謙・称徳天皇が、道鏡という心のよりどころを必要とされたことにも、あるいはその過酷さの一端を見て取ることができるのかもしれません。
元正天皇はまだしも甥への譲位でしたが、孝謙・称徳天皇にとって道祖王はどれほど身近な存在だったでしょうか?
数多の皇族の血でその御手を染められた孝謙・称徳天皇は、天皇としては大きな問題を孕んだ女帝ですが、その背景には、一個人としての女帝の御苦悩があったであろうことは、拝察しうるように思います。
もしも、そのような過酷な運命から女性皇族をお守りする方法があるとすれば、最も容易なのは、皇位継承の責務からの「除外」でしょう。
実際、称徳天皇以後、800年にわたって女帝の即位が見られなかったことは、動画にある通りです。
女性皇族は天皇になれない、のではなく、ならなくていい、というのが、称徳天皇以後800年余の、実態だったのではないでしょうか。
それでもなお、800年目にして、ついに、やむをえず、御即位を願わなければならなかったのが、明正天皇でした。
「徳川の外戚化」とは、そうまでしても、阻止しなければならない危機だったのでしょう。
動画であげられている蘇我や藤原、平家は言うに及ばず、紫衣事件の顛末は、天皇・上皇を配流したてまつった北条の横暴や、皇位簒奪を目論んだとも憶測される足利義満など、幕府≒武家政権の過去の増上慢を想起させてありあまる暴挙だったのかもしれません。
詠作の背景はつまびらかにしませんが、後水尾天皇の御製に
いかにしてこの身ひとつをたださまし国を治むる道はなくともの二首があり、天皇の抱かれていた危機感の切実さが、単なる修辞としてではなく、あるいは拝察されうるのではないでしょうか。
見ず知らぬ昔人さへしのぶかな我がくらき世をおもふあまりに
もとより後水尾天皇(上皇)は、紫衣事件の顛末に鑑みても、天皇であることに大変に自覚的な天皇(上皇)であらせられたようです。
ためしなやよその国にも我がくにの神のさづけし絶えぬ日嗣はなどの御製は、順序は前後しますが、後世の明治天皇の有名な一首、
天つ神 定めたまひし 国なれば わが国ながら たふとかりけりを彷彿とさせないでしょうか。
国難の時に際会された天皇は、かえって、御自らの血統やお立場や責務について、御自覚を新たにされるものなのかもしれません。
だからこそ、紫衣事件を機に、内親王への譲位という大きな決断にも、踏み切られたのではないでしょうか。
それが女帝御自身の個人的幸福にとっては、どのような意味を持っていたのか、余人にうかがい知ることはできません。軽々に推察してわかったような顔をすることも憚るべきでしょう。
ただ、後水尾上皇が、明正天皇(あるいは後光明天皇や後西天皇、霊元天皇もでしょうか?)をいたわり、慈しまれたと思しき、数々の御製をお残しになっていることは事実です。
九重の君をたださむみちならで我が身ひとつの世をばいのらずそして延宝六年、東福門院(明正上皇)崩御にあたっての後水尾院の御製は、
ただたのめ影いやたかく若竹の世々のみどりは色もかはらじ
あまもまたたがうき身ぞと世を知らば思ひ暮らせる日こそつらけれこのような父帝の後見よろしきをえた明正天皇は、重大な責務をお引き受けになりつつも、800年前の孝謙・称徳女帝のようには、道を踏みあやまられることはなかったように思えます。
後水尾上皇の院政期には、神宮例幣使の復活をはじめ、戦国時代以降中断されていた宮中祭祀や伝統行事がいくつも復活されたといいます。
また、家康を祀る日光の「東照社」が、「東照宮」へと格上げされたのも、後水尾上皇の院政期でした。
これは幕府の要請にもとづく一種に「取引」ではありますが、「人」を「神」にすること、その「神」に位階を授けることができるのは、天皇だけである、という厳然たる事実を示す出来事でもありました。
外戚化に失敗した今、幕府が自らの権威を高めるためには、天皇の権威にすがるしかなく、朝廷の協力を得て「神君家康公」を祭り上げるためには、後水尾院に大きく譲歩せざるをえなかったことが、数々の祭儀の復興を可能にした、と、見ることができるようです。
それもこれも、元をただせば、明正天皇の御即位があったればこそ、ではなかったでしょうか。
こちらでも述べた通り、男女同権の観点に立つのであれば、皇統護持に一生をおかけになった女帝の御功績を否定したりましてや独断で憐れんだりする必要などはさらさらないのではないでしょうか。
低俗卑劣な反日勢力には理解しえないかもしれませんが、神聖な義務に身をささげるという人生は、一人の「人間」にとって、十分以上に充実したものでありうるように思います。
明正天皇をはじめ、御歴代の天皇が、その種の充実を感得されるに余りある資質をお持ちであったことを、疑う必要があるでしょうか?
私たち臣下はただ女帝のお果たしになった「中継ぎ」の御功績を敬仰し、その大御心にたがわぬよう、皇位継承の掟を守りつづける決意を新たにすべきのみだと思うのです。
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