2016年02月13日

【動画】万世一系の皇位継承 孝謙・称徳天皇

    

八方十代の女帝のなかではもちろん、御歴代全天皇のなかでも、最も大きな問題を投げかけてくる天皇のお一方が、この孝謙・称徳天皇ではないでしょうか。
世間には道鏡一人にすべての責任を負わせて女帝の名誉を守ろうとする論者もいるようですが、それでは「日本後紀」に、女帝が和気清麻呂の報告を喜ばなかったとあることをはじめ、説明がつかない点が多くなりすぎるように思います。
一口に天皇・皇族といっても、人間ですから、迷いも生じれば、過ちも犯されるでしょう。
無理筋の贔屓の引き倒しは慎むべきだと思います。

事の真偽はさておき、皇位簒奪の企てが和気清麻呂の義挙によって阻止されたことは事実。
そして、この事件のあと、800年以上にわたって女帝の即位が見られなくなることは、すでにこちらこちらで述べた通りです。
大きな教訓を残した奈良時代最後の女帝の御代は、皇位継承のコモン・ローを逆説的に明らかにしているのではないでしょうか。



内親王の身で立太子される、という時点で男系男子継承の原則上異例の措置です。
結果論的ではありますが、後の暗雲の予兆のような、運命的なものを感じます。

とはいえ、聖武天皇の遺詔によって道祖王が次なる皇太子に定められていたのですから、孝謙天皇の即位自体は“中継ぎ”の性格を当初から失っていたというわけではないのでしょう。
女帝次第で、後継争いの危機を回避するという本来の役割をお果たしになることもできたはずです。

しかし、女帝は逆に道祖王を廃太子とし、淳仁天皇を廃位させ、臣下を皇位につけようとさえすることで、自ら数々の危機を招来してしまわれます。

そもそも、動画で言われているとおり、聖武天皇の「遺詔」が皇太子と定めていたのは道祖王であったはずですが、淳仁天皇を廃位したときは、女帝は、こちらでも引用した通り、
口に出すのも恐れ多い先帝天の帝(聖武)のお言葉で、朕に仰せられたことば、「天下は朕(聖武)の子の汝(孝謙)に授ける。そのことは言ってみるならば、王を奴としようとも、奴を王としようとも、汝のしたいようにし、たとえ汝の後に、帝として位についている人でも、位についての後、汝に対して礼がなく、従わないで不作法であるような人を、帝の位においてはいけない。また君臣の道理に従って、正しく浄い心をもって、汝を助けお仕え申し上げる人こそ、帝としてあることができるのである」と仰せられた。(宇治谷孟訳)
という、奇怪な詔を渙発されています。
中川八洋は「皇統断絶―女性天皇は、皇室の終焉」のなかで、これを、女帝による遺詔の「捏造」であると断言していますが……あながちに不敬であるとして退けるのも躊躇されるところです。
何といっても、御自身でお定めになった後継者を「好きなように変えろ」というのでは、聖武天皇のお言葉もずいぶん軽いものになってしまいますから。

女帝が道鏡を重用されたこと自体はまぎれもない事実なのですから、道鏡事件に至る経緯にも、女帝の能動的な関与があったと考える方が妥当であるようにも思えます。
女帝が、錯綜する政治的暗闘に翻弄され、苦悩された面はあるにせよ、それが売僧につけこむ隙を与えたのだとすれば、父帝同様、外来の仏教にあまりにも深く傾倒されてしまわれたことが、根本的には問題だったのではないでしょうか。
思えば、聖武天皇の御代に起きた藤原広継の乱も、君側の奸をこそ討とうとしたのであり、天皇をお諫めする意図こそあれ、私利私欲による反逆ではない、という広継自身の言葉が、続紀には収録されていたのでした。

識者・論者の中には、女帝が和気清麻呂を宇佐八幡へ派遣し、神託の真偽を確かめんとされたことをもって、女帝が道鏡の野望を阻止しようとされたと解釈する向きもあるようです。
あるいは、そうだったのかもしれません。
しかし、正史(「続日本紀」「日本後紀」)の伝えるところによれば、清麻呂の出発に当たっては、道鏡による抱きこみ工作が行われており、清麻呂の「派遣」そのものは、道鏡一味にとっても何ら問題ではなかったことも確かでしょう。
要は清麻呂が道鏡に都合の良い神託を持ちかえりさえすれば、それですむ話だったのですから。
それどころか、清麻呂の持ちかえるはずだった神託こそが、皇位簒奪の駄目押しとして、必要不可欠なものであり、計画の一部でさえあったのかもしれません。

いずれにせよ、皇位簒奪という重大事件が勃発しながら、称徳天皇の在位中に罰せられたのは正義の忠臣・和気清麻呂のほうであり、悪逆無道の逆賊・道鏡の処分は、女帝の崩御後、皇太子の御決断を待たなければならなかったことは、正史の伝える通りです。
もしも女帝の意図が、擁護派の主張するとおりのものだったとしても、これほどの重大事件の後までも、道鏡の専横を抑ええず、忠臣にお報いになれなかったというのでは、その大御心はさておき、「手腕」については批判をまぬがれないのではないでしょうか。

光仁天皇の御代には、女帝の御代に行われたさまざまな制度改革や人事が、次々に取り消されてもいったようです。
その後、800年にわたって女帝の登極が見られなくなっていくことからしても、この事件を機に、天皇が女性では心もとない、という「反省」が、朝廷内部にも生じたのだ、と、考えてよいのではないでしょうか。

雨降って地固まると片づけるには、宇佐八幡宮神託事件はあまりにも重大すぎますが、結果的に、奈良時代最後の女帝は、皇室にとって、日本にとって、ある種の反面教師として、大きな教訓をお残しになったのかもしれません。
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追記:
小泉政権下で企てられた皇室典範改悪≒「女性天皇」構想は、内親王殿下の立太子、臣下との結婚・出産=臣下による皇位簒奪を含意していたという意味で、道鏡事件の二番煎じでした。
その陰謀に終止符を打った、悠仁親王殿下の御誕生日(9月6日)が、光仁天皇によって和気清麻呂の名誉が回復された吉日にあたることも、偶然といえば偶然でしょうが、運命的とも象徴的とも言いたくなる不思議な因縁でした。
posted by 蘇芳 at 01:57|  L 「万世一系の皇位継承」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする