2016年02月12日

【動画】神武天皇のお話2




こちらこちらで述べた通り、神武東征においては、まずは平和的な交渉によって相手に臨み(言向け和し)、相手が聞き入れず敵対してきたときのみ、やむをえず武力を行使しています。
こうした相手方の出方の違いは、しばしば、兄宇迦斯・弟宇迦斯、兄磯城・弟磯城といった「兄弟」によって対照されています。
長髄彦と饒速日命も、義理の兄弟に当たります(長髄彦の妹が饒速日命の妻)。
そして、だいたいにおいて、平和的に和議を結ぶのは「弟」のほうであり、武力をもって敵対する相手は「兄」のほうになっているようです。

相手方にかぎらず、実のところ、「古事記」「日本書紀」が、多くの重要な場面で「弟」こそが大活躍する書物であることは、興味深い事実ではないかと思います。

神代の昔から、素戔嗚尊は三貴子の末弟ですし、その後継者となる大国主命も多数の兄弟の末弟です。
神武天皇の祖父にあたる山幸彦も「弟」なら、神武天皇ご自身も五瀬命をはじめ何人もの兄君がおいでになる「弟」であったことは前回の動画冒頭で語られていた通りです。
人代に入ってからも、兄皇子をさしおいて弟皇子が即位される事例は、枚挙に暇がありません。
そのさいは、必ずと言っていいほど、兄弟間で皇位の譲り合いが発生していますが、弟が兄に譲ろうとする理由がほとんど常に「長幼の順」という形式的な道徳観念であるのに対して、兄が弟に譲ろうとする理由は実際の能力・見識、そして実績であることがほとんどです。
古代日本屈指の英雄・日本武尊が「弟」であることは、言うまでもないでしょう。

世界の民話・昔話には、兄たちが失敗し、最後に末弟が成功するという物語類型が多く見られますが、兄よりも弟こそが優れているという観念は、古代においては、洋の東西を問わず、わりと普遍的なものだったのかもしれません。

あるいは、単なる観念にとどまらず、記紀における「弟」の活躍は、古代日本においては、実際に「末子相続」こそが一般的だったということを示唆してもいるのでしょうか?
しかしそれはいつしか「長子相続」へと転換していったようです。
自然に変化したのでしょうか?
むしろ、その転換の過程には、大陸・半島から伝わった儒教など外来思想の影響があったと考える方が適切であるようにも思います。
皇位の譲り合いの数々の事例において、「長幼の順」という弟皇子の言い分がほとんど常に取って付けた形式的なものに見えることが、かえってその観念が「借り物」であったことを示唆しているのではないでしょうか。
(また、皇位の譲り合いのあげく、珍しく「兄」のほうが即位された仁徳天皇の御代が、奇怪な怪異譚に満たされ、「日本書紀」のなかではかなり違和感の強い巻になっていることも、個人的には、そのことと関係があるように思えます)

とすれば、記紀においても、あるいは、「弟」の活躍が著しい時代の物語にこそ、日本の「こころ」は、より濃厚に記録されているのかもしれません。
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posted by 蘇芳 at 01:41| 「日本書紀」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする