過去に即位された八方十代の女帝は、昨今の反日勢力の企てのように皇位継承者の不足を理由に、結婚・出産を前提として皇位につかれたわけではありません。むしろ、皇位継承者が複数いらっしゃる状況下で、子をお作りにならないことを前提として即位されたのが八方の女帝であり、皇統断絶の陰謀とはその内実において正反対です。
斉明天皇の後を受けて践祚された天智天皇が崩御されると、大友皇子(弘文天皇)・大海人皇子の間に壬申の乱が発生、天武天皇が即位されます(弘文天皇は諡号であり、即位の実態があったかどうかは諸説あるようです)。
やがて天武天皇の崩御、皇太子草壁皇子の薨去を受けて践祚され、次世代に皇位を“中継ぎ”されたのが、天智天皇の皇女にして天武天皇の皇后でもいらっしゃった持統天皇です。
万世一系の皇位継承 血統の原理の動画で「男系」「女系」「双系(雑系)」の意味を確認しましたが、天智天皇の皇女である持統天皇は文句なしの男系女子です。
また、草壁皇子とは、母子であると同時に、従姉弟でもあります。
動画の言う「同じ世系」とは、万世一系の皇室の系図上は、後者の意識(男系血統≒父が誰であるか)が優先されるということでしょうか。
「吉野の盟約」についてはすでにこちらで軽く触れておきましたが、天武天皇には草壁皇子の他にも多数の皇子がおいででした。
川島皇子、大津皇子、そして太政大臣として持統天皇を補佐された高市皇子など、それぞれの皇子がそれぞれに数奇な運命を歩まれることになります。
ここでも、女帝は、危機の時代に即位されているのですし、その危機の背景には皇位継承候補の「不足」ではなく、「多さ」こそがあったことが確認できるのではないでしょうか。
そして草壁皇子亡き後、持統天皇の“中継ぎ”によって、皇位は、孫の文武天皇へとつつがなく譲位されることになります。
皇位継承の掟と直接の関係はありませんが、動画に伊勢神宮式年遷宮の件が登場したことにも、注意しておきたいと思います。
こちらで書いた通り、壬申の乱において、御仏の前で盟約を交わした大友皇子(弘文天皇)の勢力に対して、大海皇子(天武天皇)は事代主神の神託によって皇孫命と名指しされ、勝利したことになっています。
壬申の乱の後には、皇子を派遣して神宝を磨かしめた、大祓を執り行った、広瀬・龍田の両大社に奉幣したなど、神道祭祀にまつわる記述が飛躍的に増えてもいます。、
戦後教科書的な自虐史観では、天武天皇・持統天皇といえば、後進国日本が大陸の優れた文化を学んで律令体制を固めた時代、と、安直に説明されがちですが、「日本書紀」の文脈からすれば、むしろ日本の固有文化の復権期であったようにも見えるのです。
そもそも、大陸とは推古天皇の御代にすでに聖徳太子によって対等外交がくりひろげられていましたし、半島に至っては神功皇后の昔から日本の属国・朝貢国でした(欽明天皇の御代の仏教伝来も、要は仏教自体が「貢物」でした)。
相互に利益がないのならば、聖徳太子の「対等」外交など、そもそも成立するはずがなかったでしょう。
古代の日本が大陸・半島に与えた影響・恩恵・文化・文物を無視して、日本だけが一方的に恩恵を享受したかのごとき、政治的捏造史を受け入れる必要はさらさらありません。
律令制度にしても、こちらで述べたコモン・ローとの関係からすれば、十分に「日本化」されなければ、有効な法・制度として受け入れられることなどありえなかったはずです。
「日本書紀」全30巻は、この持統天皇の御代で完結しますが……こちらで推測したように、書紀が尊皇敬神の思想書としての性格を持っていたと考えることが許されるならば、天武・持統両天皇による「国造り」もまた、国体思想上の「大団円」として読み直してみることができるのではないでしょうか。
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