こちらで述べた通り、過去に即位された八方十代の女帝は、「皇位継承者が幼すぎる」あるいは「皇位継承候補者が多すぎる」などの困難な状況下で、あるべき継承者への「中継ぎ」をこそ使命として、一時的に皇位をお引き受けになってきました。そこにはまた、皇室に臣下の男性の血(=DNA)が入ることを徹底して避けるための、結婚・出産の禁止という厳しい慣例も、ともなわれていました。
つまるところ「女性天皇」は皇族の「不足」を解決する処方箋ではありませんでしたし、また、なりえないのです。
皇位継承者の「不足」を口実に、臣下との結婚を暗に含意する「女性天皇」の誕生(≒女系天皇の導入)を目論んだ、小泉政権の企ては、過去の女帝の実例とは完全に正反対のベクトルを有していました。それはすなわち、小泉の目的が皇統護持などではさらさらなく、むしろ皇統断絶≒日本滅亡をこそ庶幾していたことの証明に他なりません。
今後も陰に陽にくりかえされるであろう陰湿な売国勢力の嘘宣伝に騙されないために、国民が正しい知識を身につけることは必要であると思われます。
女帝即位当時の状況を「万世一系の皇位継承」シリーズの動画で個別に確認しておきましょう。
まずは史上初の女帝、推古天皇です。
推古天皇が、即位の時点で寡后であり、その後も「再婚」などはなさらず、独身を貫いておられることに、まずは注目しておきましょう。
他家の(臣下の)男子が皇室に「婿入り」したり「養子」になるような事態は決して発生していません。
そして、皇位継承権を持つ皇子は数多あり、権力闘争の可能性がありました。
前の記事で述べた通り、女帝の即位という非常措置を必要とした時代とは、すなわち危機の時代でもあるのです。
その「危機」を深刻化させたのは、この場合、逆賊・蘇我氏の跳梁ですが……
蘇我氏が大陸から半島を経由して伝来した仏教を信奉する勢力であり、皇極天皇の御代にわが国固有の神祇を重んじる勢力によって駆逐されたこと。蘇我馬子の姪でもある推古天皇や、仏教を重視された聖徳太子が、本来は馬子にとって傀儡となる可能性があったこと。しかし、そうはならなかったこと。推古天皇の兄であり夫であり、その後の皇統の祖となられた敏達天皇は仏教をお信じにならなかったと日本書紀に明記されていること、などなどは、こちらで考察したとおりです。
推古天皇の詔にいわく、
古来、わが皇祖の天皇たちが、世を治めたもうのに、つつしんで厚く神祇を敬われ、山川の神々を祀り、神々の心を天地に通わせられた。これにより陰陽相和し、神々のみわざも順調に行われた。今わが世においても、神祇の祭祀を怠ることがあってはならぬ。(宇治谷孟訳)推古天皇も聖徳太子も「蘇我氏」や「仏教徒」としてではなく、あくまでも「皇族」として、正しい道を歩まれたと、少なくとも日本書紀の記述からは、言ってよさそうに思います。
蘇我氏との血縁関係のみから見れば、あるいは、これは不思議に思われる展開かもしれません。
しかし、当時の家族・親族形態は、現代のそれとはずいぶん異なっていたでしょう。
貴人にあってはなおさらです。
叔父姪の関係が、どれほど親密でありえたか、生活習慣の違いから、一考してみるのもいいかもしれません。
実際、推古天皇と同様に蘇我氏の血をひくはずの崇峻天皇もまた、馬子のことを念頭に「いつかは自分が憎いと思っている者を斬りたい」と仰せになり、馬子によって弑逆せられたことが書紀に記されています。
外戚関係をもって天皇・皇族を傀儡化しようとする企ては、傀儡として扱われる当の天皇・皇族にこそ、最も憎まれるものなのかもしれません。
推古天皇にとっても、聖徳太子にとっても、蘇我氏はやはり目障りな存在だったかもしれません。
崇峻天皇の末路をご存知であればなおさらでしょう。
崇峻天皇が推古天皇にとって異腹の弟であったことを差し引いても、いざとなれば天皇をさえ躊躇なく弑逆したてまつる前科者(しかも一切の報いを受けていません)を、誰が心から信用するでしょうか。
聖徳太子は仏教を信仰され、十七条憲法・冠位十二階をお定めになられましたが、そうであればなおさら、口先では仏教を奉ずると言いながら、実際には悪逆の限りを尽くす蘇我氏の言行不一致を、お憎みになったとしても、不思議はないようにも思われます。
「和を以て貴し」となし、道徳秩序を反映させた冠位=序列の形成を目途された太子の御心と、天皇弑逆の大罪(それはいわゆる「下剋上」であり、道徳秩序はもちろん、位階序列への反逆です)が、そもそも相いれるはずがあるでしょうか?
もちろん、以上は素人の勝手な推測にすぎませんが……
いずれにせよ、この「危機」の時代をやりすごし、敏達天皇の孫・舒明天皇へと皇位を「中継ぎ」され、皇統の男系男子継承を護持されたのが、推古天皇であらせられたことはわが国の「正史」に明記されています。
その功績は古代史、日本史に特筆大書されるべき偉大なものと申し上げるべきではないでしょうか。
なんとなれば、舒明天皇の后・宝皇女(後の皇極・斉明天皇)もまた書紀によれば、敏達天皇の曾孫にあたらせられ、その皇子にあたらせられる中大兄皇子(天智天皇)も大海皇子(天武天皇)も、当然、敏達天皇の後裔にあたらせられるのですから。
すなわち、このあとの皇統は、「仏教をお信じにならなかった」と書紀に明記されている敏達天皇の御子孫によって占められていくことになります。
天神地祇を祀る天皇のしろしめされるべき日本という国にとって、これは、幸いというべき結末ではないでしょうか。
あるいは、推古天皇の行動にも、兄であり夫でもあらせられた敏達天皇の御遺志が、反映されていたのでしょうか?
素人が推測に推測を重ねるのも無益でしょうが、敏達天皇の御存在は、古代史において、実はとても重要であるようにも思えるのです。
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