2016年02月06日

【動画】万世一系の皇位継承 女帝

    

こちらで追記した通り、男系女性皇族が皇位に就かれたことは過去に八方十代の例があります。
しかし、それは本来的に望ましい事態ではなく、やむをえない事情があるときに初めて要請される、一種の「緊急避難措置」でした。
そういう意味では、女帝の御代とは、常に危機の時代でもありました。
では、どのような性格の「危機」が、女帝の登極を要請するのか?
実のところ、それは、かつて小泉政権下で企てられた謀略の口実「皇位継承者の不足」とは、まったく正反対の危機でした。



動画が語る通り、皇位継承者が一人以上存在する状況でこそ、女帝が要請されているのが、過去の歴史的事実であり、「先例」であり、「伝統」であり、コモン・ローそのものです。
女性天皇(≒女系天皇の導入)を企てた小泉政権の企てが、正統の男系男子継承者(≒悠仁親王殿下)が御誕生になった瞬間に阻止されたことは、それ自体、その企ての異質さを物語っています。

最初の女帝、推古天皇の御代には、皇太子・厩戸皇子(聖徳太子)のほか、何人もの男子皇族がおいででした。聖徳太子は若くして薨御されましたが、その後は、皇位は舒明天皇(敏達天皇の孫)へとつつがなく継承されました。
複数の皇位継承権者がありながら、というよりむしろ、複数の皇位継承権者がいたからこそ、一時的に女帝がお立ちになり、「中継ぎ」をなさらなければならなかったのは、当時が蘇我氏が専横を極めていた時代であり、後継者争いの激化を防ぐ意味があったでしょう。
蘇我馬子の姪でもあらせられる推古天皇なら、蘇我氏の同意も得やすかったことでしょう。それを逆用して、女帝が蘇我氏の横暴を抑制された形跡があることも、こちらで触れた通りです。

次の女帝、皇極天皇(重祚して斉明天皇)の御代は、まさしく、その蘇我氏討伐の快挙が達成された時代です。
このときにも皇位継承権者自体は、複数人おいでになりました。しかし、蘇我氏の跳梁という当時の政治状況が、そのなかの一人を選ぶことを困難にしたため、蘇我氏滅亡を待ってようやく本来あるべき男系男子後継者の選定を進めることができたのでした。
蘇我氏討伐後、女帝がただちに弟の軽皇子(孝徳天皇)に譲位されていることからも、後継者不足に悩まされていた時代ではなかったことは明らかです。
(蘇我氏を討伐した中大兄皇子もおいででしたし、「中」の皇子ということは、つまり兄(古人大兄皇子)もおいでなら、弟(大海皇子)もおいでです。まったく男系男子皇族の「不足」などという状況ではありません)。

孝徳天皇のあと、皇極上皇は重祚して斉明天皇となられますが、このころはまだ蘇我氏系の豪族の影響力も強かったようで、古人大兄皇子も孝徳天皇も彼らとのつながりが強かったようです。
皇極上皇と中大兄皇子は、孝徳天皇と決裂したと言われていますし、古人大兄皇子は謀反を企てたとされ討伐されます。大化改新も実情としては未だ成らずという時代だったのかもしれません。
斉明天皇の二度目の「中継ぎ」をもってようやく中大兄皇子(天智天皇)の御即位を見ることになったのも、それだけの混迷した政治状況があったということを示唆しているように思います。
そして天智天皇の即位後もまた、弟・大海皇子の出家について、世の人々が「虎を野に放つようなものだ」と噂したことが日本書紀に記されているように、皇位継承権者の「不足」よりもむしろ「過剰」こそが問題だったのではなかったでしょうか。

その大海皇子≒天武天皇には何人もの皇子がおいでになりましたが、御在世中から兄弟間に争いが起こることをご懸念あそばされ、皇子たちに「吉野の盟約」を交わさせたりもなさいました。
実際、川島皇子(天智天皇の皇子?)の密告によって、大津皇子の「謀反」が発覚するという不幸な事件も起こってしまいます。
その不穏な状況のなか、皇太子・草壁皇子までも病にお倒れになり、その皇子(後の文武天皇)はまだ七歳の幼年。
こうして、三方目の女帝、持統天皇もまた、皇子のご成長を待ち、男系男子継承を確実に行うためにこそ、一時、皇位におつきになり、「中継ぎ」をなさったのでした。
ここでもまた、女帝の目的は「確実な男系男子継承」にこそあり、当然、後継者が不足していたわけではありません。むしろ、争いが起こるほどに、皇子が多すぎたことが、問題でした。

持統天皇の「中継ぎ」によってつつがなく即位された文武天皇は、若くして崩御。
残された皇子、首皇子はまだ幼年でした。
ちょうど、草壁皇子が幼年の皇子を残して薨去されたときと、同じような状況です。
そして、皇子のご成長を待つ間、母娘二代にわたって「中継ぎ」されたのが、元明天皇、元正天皇のお二方です。

こうして二代の女帝の中継ぎによって即位を見たのが聖武天皇ですが、仏教に帰依されてしまった帝の御代が、やはり深刻な危機の時代でもあったことは、こちらで述べた通りです。
その危機の下で聖武天皇からの譲位を受けて践祚されたのが、孝謙天皇でした。
このとき、聖武天皇は上皇としてまだ御在世であり、そして崩御の直前、上皇は、道祖王を皇太子とする遺詔をお残しになっています。
そういう意味では、孝謙天皇もまた、この時点では、聖武天皇から道祖王への皇位継承を確実に実行するための「中継ぎ」の役割をこそ負っておいでだったといえます。
やがて、道祖王は皇太子にふさわしくない行動があるとして孝謙天皇によって廃されておしまいになりますが、その後、孝謙天皇は淳仁天皇に譲位されておいでですので、「中継ぎ」の役割自体は、きちんとお果たしになったとも言えますし、少なくとも、男系男子継承者の「不足」が問題だったわけではないことは、これまでの女帝の即位事情と同様です。
(つけくわえると、淳仁天皇は、他でもない「日本書紀」の編者・舎人親王の皇子であらせられ、その後ろ盾は藤原仲麻呂(元は神祇氏族・中臣)でもあったのですから、仏教に帰依された聖武天皇によって指名された道祖王よりも、日本にとっては、むしろ望ましい天皇であらせられた可能性もあるのかもしれません)

しかしこのころから、孝謙上皇が道鏡の影響を強くお受けになるようになり、恵美押勝の乱を経て、道鏡事件が引き起こされ、古代における「女帝」の歴史が幕を閉じることになるのは、こちらで述べた通りです。
称徳天皇は自ら道鏡を皇位につけることをお望みになったのか、道鏡の野望を阻止せんがためにこそ和気清麻呂を宇佐八幡宮へおつかわしになったのか、和気清麻呂が罰せられたのは道鏡一人の差し金か、称徳天皇ご自身の勅勘だったのか……この女帝の御代には論争の種がつきません。
しかし、皇位簒奪の企てが実行され、その大逆の企てが最終的に神勅によって阻止されたことで、逆説的に、皇位継承の正しい「掟」、コモン・ローを明らかに照射しているとは言えるはずです。
臣下が皇位につくことなどありえない、天壌無窮の神勅はとこしえに有効であり絶対である、という結論は、女性天皇の結婚による皇位継承者の誕生≒女系でしか皇統とのつながりを持たない天皇の誕生=皇統断絶を目論んだ、小泉政権の大逆を、真っ向から否定しています。

その後、800年にわたって女帝の即位は見られなくなっていきますが、それこそは、称徳天皇が残された「教訓」のゆえでもあったでしょうか。

それでもなお、長い皇室の歴史は、江戸時代において、二度にわたる女帝の登極を要請せざるをえませんでした。それもまた、やはり「危機」の時代でした。

寛永6年に即位された第109代明正天皇の父は後水尾上皇、母は将軍秀忠の娘・徳川和子でした。
藤原摂関家の例を想起するまでもなく、皇室に対する幕府の影響力を強めるために女御として送り込まれてこられたのが、和子女御であられたことは、言うまでもないでしょう。
しかし、御即位の当時、明正天皇は、まだ7歳。朝廷の実権は後水尾上皇が握っておいででした。元々、後水尾天皇は、朝威・朝権を回復すべく奮闘され、幕府との対立を強められた天皇でもあらせられました。朝廷に対する徳川の影響は、明正天皇への譲位によって、かえって最小限にとどめられることになったのでした。
そして寛永20年、明正天皇は21歳で異母弟・紹仁親王(後光明天皇)に譲位。
後光明天皇の御生母は園基任の娘・光子。
徳川と縁のない天皇への皇位の「中継ぎ」をお果たしになったのが、他でもない徳川出身の母の血をひく明正天皇であらせられたことになります。

江戸時代(そして日本史上)最後の女帝、第117代後桜町天皇もまた、第116代桃園天皇崩御のさい、皇子英仁親王(第118代後桃園天皇)がまだ5歳の幼さだったため、そのご成長を待つ間の「中継ぎ」として即位された天皇だったこと、持統天皇や元明天皇、元正天皇の例と同じです。
ここでもやはり、女帝は、すでに定まっている後継者への男系男子継承を確実なものとするためにこそ、要請されたのでした。
後桜町天皇はつつがなくその役をお果たしになり、後桃園天皇が即位あそばされますが、後桃園天皇は1歳の欣子内親王を残して崩御。このとき、皇位をお継ぎになったのが、後桃園天皇「直系」の内親王(女性)ではなく、「傍系」の閑院宮師仁王≒光格天皇だったことは、こちらで述べた通りです。
これこそは、同じ男系皇族でも、「直系女子」ではなく「傍系男子」こそが皇位を継承する、しなければならない、という原理を、明らかに示す、現代に最も近い事例でしょう。その意味で、とても重要な史実であると思われます。
何といっても、この光格天皇こそは、明治天皇の曾祖父にあたらせられ、現皇族方の直接の御先祖にあたらせられるのですから……幼帝をよく守り・お導きになった後桜町上皇は、日本史上に冠たる功績をお残しになった国母でもあらせられたのではないでしょうか。

以上見てきたとおり、古代においても、江戸時代においても、後継者の不足に悩まされて女帝が即位された例は一切ありません。
もちろん、女帝に「婿」を迎えて、その子を皇位につけんとする企てもまた、一度も行われてはいません。
そもそも、八方十代の女帝は、基本的に「独身」を貫かれておいでです。
もちろん、かつて皇后であらせられた方は何方もいらっしゃいますが、「再婚」などは決してなさっていませんし、皇后となられたご経験のない女帝は、文字通り一生涯独身を貫かれておいでです。
(明正天皇の即位には、その「慣例」「掟」も関係していると言われています。女系であっても徳川の血は朝廷に入れない、絶やす、という、後水尾上皇の叡慮だったのでしょうか。それが明正天皇ご本人の個人的幸福にとってどうだったのかはわかりませんが……売国奴の主張する「女性天皇」は現代の価値観に照らして過酷なものであることも銘記しておく必要があります)。
小泉政権の皇室典範改悪の企てがいかに悪質なコモン・ローへの反逆であったのか、これをもってしても明らかであろうと思われます。

なお、上の記事の最後に登場された光格天皇は、明正天皇の父帝・後水尾天皇とならんで、江戸時代における朝威回復に大きく貢献された天皇であらせられたことを、付言しておきます。
幕府の失政などもあり、実際にこの時期、朝威・朝権は著しく回復され、その朝廷の権威にすがって幕府の威光を建てなおそうという幕府側の意向も生まれ……それこそは、次々代の孝明天皇の御代に条約「勅許」問題などを引き起こす遠因となり(幕府の対外政策には朝廷の「お許し」が必要不可欠であるという一般通念が生まれ)、尊皇攘夷思想の高まりをも招くことになったのでした。
明正天皇にせよ、後桜町天皇にせよ、江戸時代における女帝を要請した「危機」は、朝廷にとっては、大きな飛躍の「機会」でもあったようです。

考えてみれば、古代においてさえ、推古天皇によって蘇我氏の企ては抑制され、皇極天皇の御代に蝦夷・入鹿の討伐が成り、称徳天皇の御代は結果的に宇佐八幡宮の神託をもたらしたのですから、やはり、俗に言う通り、「ピンチはチャンス」なのかもしれません。
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posted by 蘇芳 at 03:12|  L 「万世一系の皇位継承」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする