2016年02月03日

【動画】近衛文麿は共産主義者だった




動画概要:
2009/04/12 にアップロード
近衛文麿(1891-1945)は第34,38,39代内閣総理大臣。大東亜戦争への­突入の最も重要な時期の総理の一人。マルクス経済学、社会主義に傾倒し、周囲のブレー­ン・トラストにはゾルゲ・グループの一人、尾崎秀実を始め、昭和研究会、朝飯会、企画­院グループなど、社会主義者、共産主義者が群れ集っていた。戦前の日本は、実は密かに­共産主義に乗っ取られていたのである。これが日本の悲劇の根源だった。

こちらで書いた通り、「挟み撃ち」の憂き目にあうことは、国家にとって悪夢です。
ロシアは伝統的に二正面作戦を極端に嫌う国です(日露戦争開戦前夜、バルカン方面の情勢が一時的に安定するのを見て、「次はこちらに向かってくる」といち早く看破したのは、小村寿太郎でした)。
第二次世界大戦前夜ともなれば、スターリンの粛清によって赤軍は著しく弱体化していましたから、なおさらです(当時のソ連はフィンランド一国を攻め落とすことにも成功しませんでした)。
独ソ戦を考えていたスターリンが、ソ満国境を静謐化させるために、さまざまな策略を駆使することは、当然でした。

日本の不幸は、支那事変・大東亜戦争当時の政権中枢に、小村寿太郎のごとき叡知を欠いていたことでしょう。
「欧州情勢は複雑怪奇」などは、無能の告白にすぎません。
単に無能だっただけならまだしもでしょう。
政権中枢が、敵のスパイに乗っ取られていたという疑惑さえ濃厚なのですから、やりきれません。

226事件において皇道派が失脚し、その後、陸軍は「統制派」が制することになり、政権への影響を強めていきましたが、この「統制」という単語が、社会主義・共産主義の「統制経済」と共通の単語だということには、注意しておくべきだと思います。
国家の運営を一元的に計画・管理・統制することを目指した、という意味で、彼らは戦後レッテルを貼られたような「右翼」の軍国主義者ではありません。むしろ、「左翼」の軍国主義者と呼ぶべきではないでしょうか。
同時に、フィリピン、シンガポール、マレーシア、ミャンマー、インドネシア、インド、後にはラオス、ベトナム、カンボジアetcetcと、植民地解放に多大な貢献を果たした陸軍は、また、「アジア主義」の理想に燃える集団でもありました。
こちらでも述べたとおり、それらはコインの裏表であって、アジア主義の理想は、共産主義の野望に、まんまと利用されたのではなかったでしょうか。

その立役者となったのが、スターリンであり、リヒャルト・ゾルゲ、尾崎秀実ほか、動画に登場した面々であり、彼らを迎え入れた時の首相こそ、近衛文麿でした。

日ソ開戦を当面は回避したいスターリンにとって、日本を他国(この場合は支那・中華民国)との抗争に向かわせることが、最も手っ取り早い方策だったでしょう。別の敵との戦いに忙殺されれば、日本もソ連と事を構えている場合ではなくなりますし、当面の敵に専念するために(後背をつかれないために)ソ連との友好を必要とするでしょう(実際、ソ連が同盟国ドイツに襲い掛かってもなお、律儀に中立を守りつづけ、最後にはソ連の側から一方的に条約を破棄され侵攻された、馬鹿正直な国が、当時の日本でした)。
盧溝橋事件や張作霖爆殺のころから、ソ連の暗躍はつづいていました(張作霖殺害時の現場写真の車輛破損状況は、河本大作の「自白」とは決定的かつあからさまに食い違っています)。
また、西安事件において、捕虜にした蒋介石を脅迫して手駒にするなど、支那・中華民国側への工作も、当然、行われていました。
日本と支那、両方のトップがスターリンの手先だったというのですから、これが事実であれば、その後の両国の衝突がスターリンの構想通りに展開したとしても、驚くには当たらないでしょう。

蒋介石の軍事顧問は、長年、ドイツのゼークト上級大将でした。
(ロシアばかりか、日露戦争第一次大戦につづいて、やはりドイツという国も、日本に対してあまり良いことをした例がないようです)。
さすがに支那事変当時には、ゼークト自身は本国に引き上げていたようですが、第二次上海事件はそのゼークトが残したプランに従って、蒋介石の側が日本に仕掛けてきた戦争です(wiki:ハンス・フォン・ゼークト
しかし、帝国陸軍は精強でした。
蒋介石が頼みとした防衛拠点(ゼークトライン)は次々に攻略され、蒋介石は日本に和を乞うことになります。
元々、戦争など望んでいない、事変の「不拡大方針」を採る現地帝国陸軍にとっては望むところ。
この時点において、事実上、講和交渉は成立していました。

この「講和」を絶妙のタイミングで叩き潰したのが、近衛文麿による北支への師団増派決定でした。
講和寸前のタイミングで徹底抗戦の構えを見せ、発表し、実行したわけですが……
にもかかわらず、近衛内閣は、この「戦争」を「戦争」であるとは認めず、「事変」と称しつづけ、国際法上の「交戦国」としての権利を獲得しようとはしませんでした。当然、他国にも中立義務の類は発生しないことになります。いわゆる「援蒋」活動も、やりたい放題です。

この状況で、天下の「クオリティペーパー」こと、あの朝日新聞や、雑誌・中央公論などで健筆を振るって、主戦論を煽りにあおったのが、尾崎秀実でした。
「局地的解決も不拡大方針も全く意味をなさない」
「毒をもつて制する方法しかない」
「戦に感傷は禁物である」
「日本国民が与えられてゐる唯一の道は戦に勝つといふことだけ」
「そのほかに絶対に行く道がないといふことは間違いのないこと」
「日本が支那と始めたこの民族戦の結末を附けるためには、軍事的能力をあくまで発揮して敵の指導部の中枢を殲滅する以外にない」
これが当時の朝日新聞の論調です。
戦前の朝日は「右翼」だったのでしょうか? 
違います。
これを書いた尾崎秀実がゾルゲグループの一員であり、スターリンのスパイだったということは、何のことはない、戦前から一貫して朝日は「左翼」だったということでしかありません。

「左翼」こそが戦争を始め、煽ったのです。
もしも日本に「戦犯」というものが実在するとすれば、それこそは左翼=共産主義者でした。

尾崎秀実はいわゆるゾルゲ事件で逮捕され、戦時中に処刑されていますが、取り調べのさいの供述調書が残されているそうです。
そのなかで、尾崎は、意気揚々と、支那事変を煽った理由を語っていると言います。
尾崎の鋭利な刃物のような予見力は、日本についても、「南方への進撃においては必ず英米の軍事勢力を一応打破しうるでありませうが、その後の持久戦においては日本の本来的な経済の弱さと、支那事変による消耗がやがて致命的なものとなって現はれてくるであらう」と予測している。
(中略)
そればかりか、日本は最終的に英米との戦争で破局的な敗北を回避するために「ソ連と提携し、之が援助を……必要とする」、そのためにも「社会主義国家としての日本を確乎として築きあげる」とまで言いきっている。二年後の一九四四年にはその通りになり、陸軍を中心にこのソ連との同盟(=日本がソ連の属国となること)を模索する終戦工作が開始された。
(中川八洋「近衛文麿の戦争責任」)

話を近衛文麿に戻します。
支那事変の当時、和平努力を重ねていたのは、現地陸軍でした。
また、かつて満州事変を率いた石原莞爾(彼は統制派にも皇道派にも属していませんでした)らによる、トラウトマン工作なども行われましたが、そのことごとくをつぶしたのもまた近衛文麿でした。
石原が設定した蒋介石・近衛会談(すでに準備万端整い、近衛が現地に飛びさえすれば講和はなるお膳立てができていました)を、直前になってキャンセルし、石原をして「日本を亡ぼす者は近衛である!」と激怒させたほどです。
有名な蒋介石を「相手にせず」声明などは、言わずもがなでしょう。蒋介石を相手とする戦争で、蒋介石を相手にせず、誰を相手に「講和」が可能でしょうか? 近衛には最初から、講和するつもりなどなかったのです。むしろ、講和などされては困ったのでしょう――日本を「亡ぼす」ためには。

近衛による和平潰しは、支那事変のみならず、対米戦争前夜にも、行われた形跡があるようです。
昭和16年(1941年)四月、いわゆる「日米諒解案」が提示されましたが、第二次近衛内閣において、これに乗り気だったのは陸海両大臣(陸相はほかでもない東條英機です。つまり彼こそは「和平派」でした)、強硬に反対したのは外相・松岡洋右でした。松岡は仮病を使って閣議を欠席、審議を遅延させ、結果的に講和の時期を失わせることに成功しますが……このとき、松岡と共に、たまたま、都合よく、やはり病臥していた人物がもう一人いたことは、あまり注目されることがないかもしれません。その人物こそ、総理大臣・近衛文麿その人でした。

スターリンの描いた「南進論」の絵図の通り、植民地解放へと向かい、米国の虎の尾を踏んだあげく、この最後の機会を逃し、対米開戦へと至るのが、いわゆる「大東亜戦争への道」ではないでしょうか。
その道を切り開き、舗装し、ついでにレールまで敷いて、列車を用意、内閣の面々を乗車させ終わった段階で、政権を投げ出し、一切の責任を東條英機に丸投げし、自分一人、安全圏に退避したのが、近衛文麿でした。
この近衛の行動の一切が、戦後自虐史観は元より、右派聖戦史観においてさえ、異常なほどに過小評価され、無視さえされてきたことは、不自然極まりない、と、正常な感覚をもっていれば、誰しも思うのではないでしょうか。

近衛の不自然な行動はまだまだ枚挙に暇がありません。
一記事では書ききれないほどです。

まず、独ソ戦が始まったとき、ただ一人、三国同盟の破棄を主張したのは(東條英機の証言によれば)近衛文麿でした。これは実現しませんでしたし、結果から見れば、珍しく日本にとっても正しい選択たりえたかもしれませんが……近衛の動機は、何だったでしょう? 冒頭に述べた「挟み撃ち」の論理からすれば、三国同盟あるかぎり、ドイツとともにソ連を挟撃すること≒「北進論」が、日本のとるべき道であるということになってしまいかねません。独ソ戦という今このときのためにこそ日本を南進させたいスターリンにとって、それでは困るのではないでしょうか? 日本をソ連の属国にすることこそが尾崎の語った構想でもありました。動画で語られている人脈からしても、近衛自身が、この構想に与していた可能性を、検討しないわけにはいかないのではないでしょうか。

この時に限らず、ことソ連にかかわるとき、近衛の行動の不自然さは、特に目立つようです。

政権を投げ出した近衛の不甲斐なさを、昭和天皇は不満に思っておいでだったというのは有名ですが、その近衛が、ただ一度、昭和天皇の御前で発奮し、「今度ばかりは近衛も本気のようだ」と昭和天皇にご満足いただいたことがあります。
ほかでもない、尾崎が予言した、終戦間際の、対ソ工作(中川八洋いわく「日本がソ連の属国となること」)です。
この工作は、当時の外務大臣や、駐ソ大使には、初めから清算がないものと見なされていたことは、藤田侍従長の回想に記されています(藤田尚徳「侍従長の回想 (講談社学術文庫)」)。
しかし、陸軍がそれを唱え、近衛が発奮し、昭和天皇がそれを嘉せられては、止めようもありません。
結局のところ、無駄な和平工作にいたずらに時間を空費し、ソ連侵攻の時を迎えたのが、この一件の顛末です。
近衛文麿は、日本を亡ぼすために、昭和天皇を欺き奉ったのではないでしょうか?

終戦後にも、近衛の醜行はさらに続きます。
意気揚々とGHQを訪問、マッカーサーから新憲法起草を任されたと主張したあげく、よりにもよって外国人記者たちの前で「天皇の戦争責任」「退位論」をぶち上げたのが、五摂家筆頭・近衛家当主、文麿だったというのですから、救いようがありません。
この近衛の厚顔無恥な行動には、昭和天皇も大変な衝撃をお受けになったらしく、「近衛は自分にだけ都合のいいことを言っている」と仰せになり、藤田侍従長の前で異例の「御述懐」をまでなさったことは、前掲の藤田氏の著書に詳しいです。
開戦を避けることができなかったのは、天皇が専制君主ではなく、立憲君主であるからだ、という、有名な先帝陛下の御発言は、実にこのときのことであり、侍従長の前でそのような「述懐」をなさるということ自体が、慣例にない、異例の出来事でした。
あの昭和天皇をして、そこまでの御発言をさせたてまつった、このときの近衛の行動に、いったい、どのような弁解の余地があるでしょうか?

すでに天皇・皇室の重要性を認識していたマッカーサー・GHQも、さすがにこれはマズいと考えたのか、近衛に新憲法起草を依頼する云々の事実はない、と正式に声明するにいたり、ここに、国賊・近衛文麿は退路を断たれることになりました。
その後、自殺にいたる経緯には、木戸幸一、ハーバート・ノーマン、都留重人など、いずれも香ばしい面々がかかわっているともささやかれているようです。

いずれにせよ、「右翼軍国主義者」の起こした戦争、という戦後自虐史観の通説が、歪曲し、隠蔽してきた真実の核心は、「左翼共産主義者」の起こした戦争、という一点にある、ということだけは、確からしく思えますし、その「真実」は、西安事件の経緯に照らしてみれば支那・中華民国においてもなお「真実」であり、さらにはこちらでも軽くふれたとおり、米国においてさえも「真実」であることは、ヴェノナ文書の公開と共に、明らかになりつつあるのではないでしょうか。

左翼捏造史観の対極にあるように見えるからと言って、この共産主義の責任・役割を過小評価する限り、右翼聖戦史観もまた、真実を捉えそこなわざるをえないように思います。
本当の意味で「日本を取り戻す」のなら、心ある日本国民は、そのことを銘記して、歴史を見つめなおす必要があるのではないでしょうか。
近衛文麿の戦争責任
侍従長の回想 (講談社学術文庫)
大東亜戦争の真実―東條英機宣誓供述書 (WAC BUNKO)
大統領への証言
尾崎秀実時評集 日中戦争期の東アジア (東洋文庫)
ゾルゲ事件 上申書 (岩波現代文庫)
大東亜戦争とスターリンの謀略―戦争と共産主義 (自由選書)
コミンテルンとルーズヴェルトの時限爆弾―迫り来る反日包囲網の正体を暴く
歴史の書き換えが始まった!―コミンテルンと昭和史の真相 (日本の息吹ブックレット)
posted by 蘇芳 at 02:25|  L 大東亜戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする