2016年02月01日

【動画】「日本のこころ」 常若 (とこわか)

   

「日本のこころ」シリーズ。



動画概要:
2013/07/10 に公開
瑞穂の国は、常に若々しくあり続け、命の輝きを未来へ伝えます。

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「常若」の精神を伝える、20年に一度の大祭「式年遷宮」

四季折々に巡る自然の中、その恵みのもとに生きてきた日本人は、神々からいただいた「­いのち」を尊び、常に若々しく輝かせ、子孫に伝えたいと願ってきました。
伊勢神宮の式年遷宮は、その「いのち」が常に輝くことを祈る日本人の「常若」のこころ­を伝えています。 式年遷宮は20年に一度、皇大神宮(内宮)と豊受大神宮(外宮)、また十四ある別宮の­御社殿を造り替え、御装束・神宝もすべて新調して、神々をお遷しする日本最大の祭りで­す。 およそ千三百年前、持統天皇4年(690年)に第一回が行われてより、約千三百年にわ­たり継承されてきました。
古式のままに社殿を造り替え、神々にお遷りいただくことで、日本人は「いのち」が常に­輝き、国が若返り、永遠に発展するよう祈ってきました。日本の原点を継承する伊勢神宮­に、多くの人々が心を寄せています。平成二十五年、伊勢神宮は第六十二回式年遷宮を迎­えます。

「命は循環します」と、動画のナレーションは言っていましたが、
その「循環」が、水などの「空間」的な循環と、稲の生育・季節の推移など「時間」的な循環の両方を含んでいたことに、注意しておきたいと思います。

空間的な循環については、こちらでも触れた、神道のエコロジー的側面に通じるものでもあるでしょうが、もう一方の時間の循環は、さらに直截的に、人間の実存的な意識の在りように、かかわってくるのではないでしょうか。

こちらで考えたように、世俗化・大衆化した様相をいったん脇においてその「原理」に注目すれば、ユダヤ・キリスト教はすこぶる運命決定論的な性格を有しています。
そこには、約束の地、最後の審判、千年王国、などの予言、終末論、最終目的地が語られています。
ある目的に向かって「直線的に進行する時間」が流れている、と言ってもいいでしょう。
いわゆる「時間の矢」とは、このような様相のことを言うのかもしれません。
そこには「始まり」と「終わり」があります。聖書の「時間」は天地創造で始まって最後の審判で終わる。それ以降は「時間」そのものが存在しない。ユダヤ・キリスト教の「永遠」とは死後の永遠であり、時間の喪失、無・時間、あるいは非・時間の様相を呈するのではないでしょうか。

そのような直線的な「時間」のなかにあっては、人々は、いつか遠い未来のある瞬間に、約束の地に到着したり、神の国に入ったりするための準備期間として、現世の人生を送らざるをえないのではないでしょうか。
重要なのはあくまでその目的地のほうであり、その旅の途中経過自体には、本質的な価値がない……そのことは、キリスト教が信者を「子羊」に譬えることに、端的にあらわれているようにも思います。
羊の群にとって、重要なのはあくまで目的地である緑なす牧草地であって、途中の険しい道のりではありません。ただ、その道を通らなければ目的地にたどり着けないので、牧羊犬に見張られながら仕方なく歩いているだけです。
意地の悪い言い方をすると、列からはみだしてはいけませんよー、悪い子は置いていきますよー、という、一種の「脅し」が彼らの戒律であるとも言って言えないことはないかもしれません。
こちらで述べたように、キリスト教や仏教が、死後の救済を「目的」とし、現世での生き方がその救済の可否を左右するというのなら、今現在の人生は、その死後の目的のための「手段」でしかなくなってしまいかねません。

大衆化した主流の信仰なら、さすがにそこまで極端なことは言わないかもしれませんが、その戯画とも言うべきカルトや原理主義なら、終末論を利用して信者を統制しようとするのは、よくある「手口」と言うべきでしょう。富士山が噴火するから悔い改めろ、というのも、死後に天国に入るために自爆テロを実行せよ、というのも、未来の(死後の)救済という「目的地を目指す」直線的な時間感覚が、根底にあるという点では、共通しているように思います。

それに対して、「常若」という、「循環」の思想を持つ人々は、どのような時間感覚を生きることになるでしょうか?

朝が来て夜が来てまた朝が来て、春が夏になり夏が秋になりやがて冬がやってきてまた再び春が訪れる、と、永遠に同じところを循環して流れ続ける時間には、始まりも終わりもありません。
それは天と地とともに窮まりがない、文字通りの「永遠」であり、むしろ「永続」です。
「時間の矢」に対照させるなら、それこそ、いわゆる「時間の環」というべきものでしょうか。

日本に流れているのは、日が昇り、日が沈み、春が来て、夏が来て、秋が過ぎ、冬を経て、また春が訪れる、という、循環する時間であり、その循環自体は永遠に続くのでしょう。
神道や日本人は最終目的地を持たない、永遠の今を生きている、と言ってもいいかもしれません。

そして、最終目的地を持たない、終着点がない、どこをも目指す必要がない、ということは、別の言い方をすれば、すでに目的地に到達している、「今・ここ」こそが目的地であるということでもありうるのではないでしょうか?

遠い未来や死後に目的地≒約束の地を投影するユダヤ・キリスト教とは違って、神道にとってはこの現世そのものが、すでに、最初から神聖で清らかな「約束の地」……なんとなれば、この大八島の国こそ、神々によって「産み」出された、神々の子なのですから。
その地に生きる人々は、大切なこの国を、この現世をこそ、大切に守り、慈しみ、次の世代へ受け渡してゆかなければなりません。そして次の世代はまた次の世代へと、ここでもやはり時間的な営みは「循環」していくのでしょう(させていかなければならないのでしょう、それが「神勅」に基づくのならば)。
それは現世の「永続」であり、生の永遠。

これまでにも何度も言っていますが、こういう神道的な時間感覚は、世俗化・大衆化・さらには日本化さえされた様相をいったん脇に置いてみれば、仏教思想の本来的な「原理」とも、やはり違っているでしょう。
何といっても、仏教で「永遠」に続くとされているのは「苦しみ」なのですから。
現世を大切にせよ、どころか、こちらで述べた通り、現世こそが「穢土」であり「苦界」であり、それを「厭離」せよ、というのが、本来の仏教の「原理」であったはずです。
一見すると「六道輪廻」自体は「循環」の思想のようにも思えますが、仏教はその循環をこそ否定し、厭離しているのですから、その思想的核心はむしろ「循環」の対極にこそあります。輪廻からの解脱という「目的」を目指すという時点で、人身を受けた今生の「時間」は、やはり聖書に似た直線的なものと化してしまっているのではないでしょうか。

そもそも、仏教は「インド固有の民族信仰では人間は「救済」できない」という批判とともに出発した新興宗教でした。
そして、批判の対象であるヒンドゥー教こそ、【ブラフマー(創造)―ヴィシュヌ(維持)―シヴァ(破壊)】という、「循環」的な宇宙観を持つ信仰だったはずです。
とすれば、「時間の環」の思想と、「時間の矢」の思想との対立関係は、この時点ですでに成立していたことになり……あるいはそれは、仏教やキリスト教などの創唱宗教と、それに駆逐された世界中の民族宗教とのあいだに、広く見られる対立構造でもあったのでしょうか?
死後の救済という信仰の直線的な時間の観念は、従来の信仰の持つ循環的な時間の「環」を破壊するためにつきたてられた、文字通りの「矢」であった……のかもしれません。

こちらで述べた通り、神道的な「神聖さ」の感覚は、本来は、何も日本にだけ限った特殊・固有の感覚ではなく、広く人類にとって自然な、普遍的な、一般的な感覚だったのではないかと思いますが……キリスト教も仏教も、そもそものはじめには、それら人間にとって自然な、一般的な、普遍的な信仰の「敵」として出現したのであって、たとえ現時点における信者数がどれほど莫大であったとしても、それら創唱宗教こそ、その「原理」においては、不・自然で、人工的で、特殊な思想でありイデオロギーなのではないか、という健全な疑いは、まだまだ捨ててはいけないもののように思います。

もちろん、長い時の試練を経て、世俗化・大衆化・穏健化された宗派も多いはずですが……
それは仏教やキリスト教自身というよりも、主として、それらを苦労して「飼いなら」し「無害化」した民俗社会の側の功績であって、仏教やキリスト教やイスラム教といった創唱宗教自体は、今なお、ともすれば原理主義化・過激化への誘惑に駆られがちなのではないでしょうか?
それは必ずしも「宗教」の装いを纏ってはいないかもしれません。
たとえば、20世紀の人類に計り知れない惨害をもたらした共産主義思想なども、ユダヤキリスト教の亜流・派生・戯画とも言うべき、現世否定の千年王国カルトとして理解したほうが、政治経済思想として扱うより、よほど適切である、というのは、別に目新しい指摘ではないでしょう。
ルソー、デカルト、マルクス、レーニン、毛沢東、民主党……哲学、思想、文学、科学、政治、経済……人類の敵はどのような姿にも偽装し、人々の善良さにつけこんで、詐欺をはたらきつづけてきたのではないでしょうか。

とすれば、それら現世否定のイデオロギーが放つ「矢」に対して、日本の「こころ」を守る「盾」を持つことは、今なお、必要でありつづけているはずです。
あるいは、その「こころ」そのものが、同時に、「盾」そのものでもあるのでしょうか?

結局のところ「常若」とは何か?

「常に若い」ということは「永遠に続く」ということで。
何が続くのかといえば「日常」であり「日々の営み」であり「普通」で「あたりまえ」の幸福ではないか、と、個人的には思うのです。

神道にとって、重要なのが、
遠い未来ではなく、「現在」ただ今、
目的地ではなく、「道程」そのもの、
すなわち、「今、ここ」であるとすれば……

土を耕し、種を蒔き、収穫し、神々を祀り、子を産み、育て、父母に孝養を尽くし、弔い、やがて自分も死んでゆく――そういう日本人の伝統的な当たり前の日々の営みこそが尊い。約束の地は遠い未来ではなく、今ここにある。だから日々のあたりまえの生活を大事にしなさい、というのが、神道の「こころ」であり、その「こころ」をもって「今・ここ」を精一杯に生きることこそが、共産主義カルトをはじめとする「救済詐欺」に対抗するための実践的な智慧でさえありうるようにも思えるのです。
常若の思想――伊勢神宮と日本人
伊勢神宮―常若の聖地
伊勢神宮 水のいのち、稲のいのち、木のいのち
posted by 蘇芳 at 02:11|  L 「日本のこころ」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする