2016年01月31日

【動画】「日本のこころ」 祈 (いのり)

    

「日本のこころ」シリーズ。



動画概要:
2013/04/14 に公開
神に捧げる言葉には、偽りのない「まこと」の心と公への祈りが込められています。

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天下万民の幸せを祈り、神に捧げられてきた言葉「祝詞」

古くより、「言霊(ことだま)の幸(さきわ)う国」と称されてきた日本では、言葉には­霊力が宿り、声に出し言葉を発することで、霊的な力が働くと信じられてきました。
日本人の「祈り」の原点は、神々に向かい言葉を捧げることであり、その目的は「個」の­幸せではなく、自分がそれによって生かされている他者、共同体、さらには国家全体の安­寧を願うことでした。
「祝詞(のりと)」は神職が神々に奏上する言葉で、その起源は神話に由来します。天照­大御神(あまてらすおおみかみ)が天岩屋(あまのいわや)にお隠れになってしまい、高­天原が暗闇となった時、天児屋命(あめのこやねのみこと)は大御神のお出ましを願い、­「祝詞」を奏上しました。再び高天原に光が戻ることを願う「公」の祈りでした。
利己心や不浄のない「まこと」の心から発せられるからこそ、祈りの言葉は美しいのです­。

「平成25年秋 第62回 伊勢神宮式年遷宮」
http://www.sengu.info/

Present by 伊勢神宮 式年遷宮広報本部(制作2013年3月)

祈り自体は日本人の専売特許でも何でもありません。祈らない民族はありません。
しかし、その「祈り」のあり方には、やはり、民族固有の性格・様式・スタイルのようなものがあるのにちがいないでしょう。
日本ならではの祈りの形というものがもしあるとすれば、それは大事にすべきだと思います。

動画の冒頭で登場し、祝詞を奏上したとされる天児屋根命は、神祇氏族・中臣の祖先とされています。
天孫降臨のさい、二つの神勅を賜り、瓊瓊杵尊に付き従った神々の一柱でもあります。
その中臣のなかの一門が、蘇我氏討伐に功をあげて、藤原の姓を賜り、奈良・平安時代を通じて、政治の中枢を担っていくことになるのは、よく知られているとおりです。
「政りごと」は「祭りごと」でもあり、当然に、それは天下国家のためにあったわけです。
天児屋根命の祝詞も、岩戸隠れという民族の一大危機にあたって、天下の平安のためにこそ奏上されたのでした。

現代において、神に祈るといえば、個人的な願い事、いわゆる御利益・神頼みの類が、まず連想されてしまうかもしれません。
しかし、歴史上最初の祝詞というのは、私的なものではなく、もっとはるかに公的なものでしたし、現代においても、神社とは個人的な願い事をする場所ではない、という主張は、しばしば耳にします。
この動画は式年遷宮の広報ですが、伊勢神宮ともなれば、なおさらでしょう。
伊勢神宮は古来、「私幣禁断」と言われ、個人的な願い事はしてはいけない場であるとされてきました。
それはそうでしょう。
神宮とは、皇室と深いかかわりを持ち、皇室の御先祖にして日本人の総氏神を祀った、神道の中心であり、天皇陛下の祈りの庭なのですから。
上御一人としての天皇陛下が私心を離れ、神の御心を心として、すべての国民のために“よかれかし”と祈ってくださる場所。それが本来の神宮です。

もちろん、今どき、神社で個人的なことを願ってはいけないなどと杓子定規なことを言い張る必要もないとは思いますが、神道の大本にある「祈り」が「個」を超えた「公」の祈りだったこと自体は、忘れないようにしたいものです。

こちらで述べた通り、死後の「救済」を志向する仏教やキリスト教は、世俗化・大衆化する以前の原理的な性格においては、すこぶる私的・個人的な側面を持ちます。
キリスト教が神と人との一対一の関係を基本とするというのはよく言われることですが、仏教でさえ、最初の形態は自分一個の解脱≒救済を目指す方法論・小乗仏教でした。仏教の「苦」は根本的には「生老病死」の「四苦」であり、そこに「愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦」を足した「八苦」であり……それは他人が代わることのできない、すこぶる私的・実存的な「苦」です。

あらゆる信仰が避けて通れない世俗化・大衆化・通俗化をいったん脇におき、その「原理」において比較してみれば、神道の「原理」は、これら仏教やキリスト教の「原理」の持つ個人主義的性格とは、かなりニュアンスが違っているように思います。
こちらで考えてみた通り、神道が「他者」の尊重という観念を必然的に内包しているとすれば、それは「自他の関係の網の目」を尊重する、集団的、共同的な性格を強めていかざるをえないのではないでしょうか。

そうした共同的な性格が、よく言われるように、一方通行の「滅私奉公」の極端に陥る可能性と背中合わせの危険を孕んでいることは、事実かもしれません。
しかし、本来、「他者の尊重」は、当然、その「他者」にとっての「他者」である「私」の尊重をも、同時に含意していなければならないはずです。
こちらで考えた通り、もしも神道において究極的に神聖なものが「生命」だとするなら、やみくもに「私」を「滅」し、命を縮めて良いということにはならないでしょう。

それでもなお「私」を「滅」するべき時は、おそらく、あるのでしょう。
自己犠牲のすべてを否定する必要はないはずです。
しかし、それは何か? どのような場合か?
「私」が「私」を「滅」するに足る価値とは……?
それについては、しっかりと見定める必要がありそうです。
それともそれは、そのときになれば、私たちの内なる日本の「こころ」が、自然と、教えてくれるものなのでしょうか?

私にはそこまでの経験がないのでわかりません。

ただ、もしかすると……
あるいは、その「価値」を提示する責任を一身に背負われているのが、天皇という御存在であるのかもしれない、ような気はします。
なんとなれば、宝鏡奉斎の神勅を奉じられる天皇こそは何よりもまず「祈る」存在であり、その天皇の「祈り」こそは公的な祈りの究極であるはずですから。

その究極の「公」の祈りにおいて、御歴代の天皇が、常に、第一義的に「国安かれ」「民安かれ」とこそ、祈ってくださったのだとすれば……その究極の「祈り」においてこそ「公」と「私」は一致するのかもしれません。
そのような観念は「支配者」「権力者」に都合のいい詭弁だ、と、左翼的思考の持ち主なら言うのかもしれません。
しかし、皇紀でいえば2676年を数える歴史において、その「祈り」の求心力が果たした現実的な役割・効果・効力を否定することは、事実において、不可能ではないでしょうか。

こちらで述べた、「権利」への欲望から最も遠い「義務」や「責任」を引き受ける(少なくとも引き受けるべきであると観念する)皇室が、世俗の権力としてではなく、「祈り」の主体として、連綿として存続しつづけている……
一人の日本人として、それは驚くべき伝統であり、文字通り「畏れ多い」ことではないかと思うのです。
日本は天皇の祈りに守られている
宮中祭祀―連綿と続く天皇の祈り
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大祓 知恵のことば―CDブック
決定版 伊勢の神宮
人は何のために「祈る」のか 生命の遺伝子はその声を聴いている (祥伝社黄金文庫)
posted by 蘇芳 at 02:11|  L 「日本のこころ」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする