2016年01月28日

【動画】万世一系の皇位継承 伝統保守(一)


万世一系の皇位継承」シリーズ。



左傾化した戦後の風潮は、このところ、ようやく、徐々に是正されつつあるようにも見えます。
愛国者、保守派を自認する人たちの声も、ようやく、大きくなりつつあるようにも思えます。

しかし、では、そもそも「保守」とは何か?
保守保守といって、では、何を「守り」「保つ」のか?

その対象こそは動画の言う「伝統」であり、先人から受け継がれてきた叡知であり、こちらで触れた英米思想の言葉を借りるなら「コモン・ロー」であり、すなわち、日本の「こころ」そのものではないでしょうか。

コモン・ロー思想の故郷、英国は、先進国としては珍しい、成文憲法を持たない国です。
成文憲法の有無が社会秩序の維持に不可欠の条件でないことは、すでに、こちらでフランス革命の例を引いて述べた通りですが、英国においてさらに特徴的なことは、憲法に相当する不文の「法」に関する決定権を持つ省庁が、立法府ではなく、司法府であることでしょう。
「コモン・ロー」が、伝統やしきたりのなかに、すでに「存在」しているとするのなら、それを今さら「作る≒立法する」というのは、道理に合いません。コモン・ローがすでに予め存在しているのだとすれば、人々がなすべきことは、それを「発見」することです。
英国において、「憲法」は、過去の歴史・先例のなかに尋ね求めるものであって、それは一種の「判例主義」なのだそうです。

「成文憲法」を持たず「歴史」のなかに社会規範を求めつづける、というこの態度は、「戒律」を持たず神代の「物語」のなかに生き方の指針を求めつづける、という、こちらで述べた神道的な態度に、聖俗の違いはあれ、よく似ています。
もしも人間に「理性」があるとすれば、ルール・コード・規範を固定化するのではなく、常に、あらためてその源泉にアクセスし、行き方を問いたずね、確かめ続けるという、この営為≒過去との対話のなかにこそ、束の間だけ宿りうるのかもしれません。

過去を尊重し、先人の叡知に頭を垂れ、伝統を保守する、この態度の対極にあるのが、賢しらな知力を振りかざす、むやみやたらな「変革」「革命」の論理ではないでしょうか。
彼らはひたすらに「変革」を求めますが、変革しなければならないということは、現在ただ今の世界に欠陥があるということであり、そこには必然的に、現在ただ今の世界を築き上げた先人たちに対する、敬意の欠如が潜在しており、はなはだしい場合、それは軽蔑や憎悪の域にも達しうるのではないでしょうか。
それは同時に、自分たちは先人よりも「進歩」した「偉い」存在であるという、傲慢・増長をもたらさざるをえませんし、だからこそ「革命」のデマゴギーは「現代」のナルシシズムにとって、媚薬として、麻薬として作用し、人を陶酔させ中毒させるのではないでしょうか。

「理性」による革命の主張が、往々にして、最悪の「獣性」に堕すことは、歴史上、何度もくりかえされてきた事実でしょう。その秘密もまた、このナルシスティックな陶酔への「欲望」にこそ隠されているように思います。

共産主義者の悲願は暴力革命ですが、それは要するに、現実を、思い上がった理性で構築した「支配・被支配」の図式に当てはめ、その上下関係を「転倒」させよう(≒自分たちこそが支配者になろう)とする「欲望」の表現にすぎないのではないでしょうか。(たとえどれほど言葉を美々しく飾っても、事実において、そんな美辞麗句は、ほとんど常に、絵に描いた餅にすぎなかったように思います)
そして、世界を「支配・被支配」の図式によって解釈し、暴力による支配者の殺害を正当化した以上、当然ながら、新たな支配者もまた革命の暴力によって殺害されても、文句は言えないことになります。
革命家という名の簒奪者がそれを避けようと欲するなら、当然、支配者としての暴力の行使に頼ることになるでしょう。
こうして、暴力革命によって成立した権力は、必然的に、その暴力を自国民に向けることになり、革命は常に暗黒の恐怖政治をしかもたらさないことになります。
「支配・被支配」の暗黒史観は、革命の暴力を正当化すると同時に、権力者の暴力を必然的に「生産」する……これでは、革命家の賢しらは、「支配・被支配」という社会の秘密を「解明」したのではなく、暴力による「支配・被支配」の図式を現実の社会において「実現」しただけでしかありません。

それは革命の根底にあるのが「権利」「権力」に対する「欲望」であって、伝統的な王権が内包する統治の「義務」の観念を無視するからではないでしょうか。
つまるところ、それは欲望のカルトであり、神聖さの対極にある俗悪の権化であり、簒奪者への崇拝の強制もどこまでいっても既成宗教の戯画にすぎないように思えます。

フランス革命やロシア革命の例を引くまでもなく、古代の日本においても、こちらこちらで見た簒奪の企ては、仏教僧という当時のインテリによって行われんとした「革命」だったのかもしれません。
時の天皇さえ惑わせるほどに、彼らの「言葉」は美々しく魅力的だったのでしょう。
しかし、その論理の最後に帰着するところは、蘇我氏による、道鏡による、簒奪の企てであり、つまるところ個人的な権力への「欲望」にすぎなかったことも、近代の「革命」と同断です。
むしろ、逆に、ルソーやデカルトの「理性」、マルクスやレーニンの「科学」こそ、古代の侵略者・簒奪者の浅ましい「欲望」と同断なのだ、と、言うべきでしょうか。

人間は、少しも、「進歩」などしていないのでしょう。ただ、我こそは「進歩」したと主張する狂人が、定期的に出現し、人々の善良さにつけこみ、騙し、自らの欲望を遂げようとするだけなのではないか――地下鉄サリン事件の主犯であるテロリストが「最終解脱」を自称していたように。
よく言われることですが、革命の「情念」や共産主義の問題は、実のところ、政治思想の文脈ではなく、宗教(むしろカルト)や精神病理の文脈でこそ、把握すべきもののように思えます。

そうして、カルトによる革命という名の「犯罪」が、「攻撃」が、「侵略」が、歴史上、たびたびくりかえされてきたとするならば、それに対する「防衛」もまた、何度でもくりかえすことは、愛国者・保守主義者を自認する者たちの当然の責務ではないでしょうか。
その「防衛」ラインの最奥、本丸にあるべきものこそ、伝統であり、コモン・ローであり、日本においてはすなわち三大神勅の命じる「神々を祀る天皇のしらしめたまう国」のあり方であるように思います。

と、すれば、古代日本において、蘇我氏や道鏡の野望をくじいたのが、尊皇敬神の志士であったことは、必然だったのでしょう。
そして、古代日本において大きな役割を果たした藤原氏≒中臣氏が、元をただせば、侍殿防護の神勅を奉じる神祇氏族であったことも、偶然ではないのではないでしょうか。
願はくは、爾二神、また同じく殿の内に侍ひて、善く防ぎ護ることをなせ
三大神勅が皇室・天皇陛下が従いたまうべき命令であり、こちらで見たとおり、今なおそれを守りつづけておいでになるとすれば、臣下の側もまた今なお御皇室を「善く防ぎ護る」義務を解かれてはいないはずだと思えるのです。

天皇が天皇の「義務」をお果たしになり、臣下が臣下の「義務」を果たすとき、そこには、亡者のように「権利」のみを追い求めるあさましさとは遠い、日本の「こころ」が実現されうるのではないでしょうか。
現代の中臣よ、出でよ、と……言うべきなのかもしれません。
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posted by 蘇芳 at 01:54|  L 「万世一系の皇位継承」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする