2016年01月26日

【動画】「日本のこころ」 祭 (まつり)


「日本のこころ」シリーズ。



動画概要:
2013/04/14 に公開
自然と共に生きていた日本人は、神々をもてなし祀ることで、感謝と畏敬の念を表しまし­た。

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神々をもてなすことが原点とされる、日本の祭り

祭りというと賑やかで楽しい行事という印象がありますが、自然と共に生きていた日本人­にとって非常に重要な意味を持っています。
祭りの語源には、神様を「祀る」「奉る」「待つ」など諸説あります。日本の祭りは多種­多様ですが、その原点は「神を迎え、もてなし、お送りする」ことにあります。日本神話­の中に祭りの起源とされる物語があります。
<須佐之男命(すさのおのみこと)の乱暴を見かね、天照大御神(あまてらすおおみかみ­)が岩屋に籠ると、地上が闇の世界となってしまう。神々が祝詞を唱えたり踊ったり楽し­げに騒いで天照大御神を外にお出しすると地上に光が戻った>
という「天岩屋隠れ」のくだりで、この神々の儀式が祭りの象徴とされているのです。
自然や神やあらゆるものに感謝と畏敬の念を表し、生きる力をいただく――祭りには、謙­虚に生きていた先人たちの心と願いが込められています。

「平成25年秋 第62回 伊勢神宮式年遷宮」
http://www.sengu.info/

Present by 伊勢神宮 式年遷宮広報本部(制作2012年03月)

天の岩戸の物語ですが、これが祭りの始まりとして描写されています。
そして祭りを神を「もてなす」ものと表現しています。
この認識が神道の世界でどれくらい一般的なものなのかよくわかりませんが、式年遷宮公式広報が言うことですから、それなりに正当な解釈なのでしょうし、なかなかに意味深い解釈ではないかと思います。

「もてなす」というのは当然“誰か”が“誰か”をもてなすわけで、孤独では成立しない話です。一種のコミュニケーションですね。
つまりここでは神と人(天の岩戸では神々ですが)が、別の人格を持った別の「主体」、自由意志を持つ「他者」として観念されていることになります。

何を当たり前のことを……と思われるかもしれませんが、唯一絶対・全知全能の造物主、という観念にとらわれたユダヤ・キリスト教世界では、この人間の主体・人格・自由意志の存在すら、しばしば疑問視されてきたのではなかったでしょうか?

さすがに「神の意志でなければ木の葉一枚落ちることはない」などという俗諺を真に受ける人は、欧米にもそうそういなかったとは思いますが、「人間に自由意志は存在するか?」という命題が、西洋の神学者・哲学者にとって、長年、死活的に重要だったことは事実だったはずです。
最後の審判や千年王国といった思想を見ても、ユダヤ・キリスト教がその教義の根底に運命決定論的な「原理」を内包していることは、明らかではないでしょうか。

全知全能の神に支配された決定論的世界。

神羅万象が唯一絶対の超越者によって「完璧」にデザインされ、その意思のままに「完璧」に運行しているとするならば、そこにおける人間という存在もまた、神の意思決定に「完璧」に従属するモノにすぎない。自由意志などあるはずもない。一神教世界の「人間」とは要するに神の作ったゼンマイ仕掛けの人形にすぎず、人間が自由意志を持っていると思っているのも、そう思わされているだけでしかない、ということになりかねません。
とすれば、人間が罪を犯そうと神に背こうと、やはりそれも神が仕組んだ自作自演にすぎず、さらには人が神に祈ることさえも神の自作自演、自慰行為にすぎないことになってしまいます。

ローマ皇帝のネロは詩人・劇作家でもありましたが、もちろん、皇帝陛下の傑作を批判などすれば首が飛びますから、歯が浮くようなお世辞に囲まれていました。劇の上演のときには、拍手喝采をおくるためのサクラ集団まで用意していたとか。皇帝としてはそれでいいでしょうが、作家としては不幸なことのように思えます。作品の出来不出来などはどうでもよく、観客はネロが泣けといえば泣き、笑えといえば笑い、褒めろといえば褒めるのでしょう。これでは観客こそがネロの一人芝居の操り人形です。ネロの時代、ローマはまだキリスト教国ではありませんでしたが、全知全能の絶対者の孤独は、あたかもネロによってすでに先回りして戯画化されていたかのようです。

自分で作った操り人形を、自分の手で操って、自分自身を崇拝させる、一人ぼっちのクリエイター。
それが一神教のGODだというのなら、またずいぶんと哀れで滑稽で孤独な神様もあったものです。
自分たちの神こそが唯一絶対、一番偉いのだ、と、威張りたいがために全能性をインフレーションさせた結果、必然的に逢着した自家撞着が、この孤独な神の一人遊びであるとすれば、皮肉としか言いようがありません。
最初から全知全能でも何でもない八百万の神々を戴いている神道のほうが、よほど精神衛生にいいように思いますし、「人間」の自律性・主体性を尊重しうるように思います。
(一神教には一神教の言い分があるのでしょうが、事が信仰の問題であるならば、そもそも、「議論」や「証明」の問題ではないでしょう)

なんとなれば、くりかえしになりますが、祭りにおいて、人が神を「もてなす」ことが可能なのは、人が神の操り人形ではなく、自由意志を持った主体であり、人間と神々とがお互いに「他者」であるからこそでしょうから。
そして、神道においてそのような人間存在の主体性・自律性・他者性が担保されうるのは、こちらで述べたように、私たち人間が神々によって「創造」されたり「製造」されたり「製作」されたのではなく、文字通り「出産」された子孫だからではないでしょうか。
子供が親の操り人形ではなく、独立した人格を持った「主体」であることは、当たり前です。

もちろん、自由意志を持つ主体であれば、当然、自分の行為には自分自身で責任を持たなくてはならなくもなるわけですし、また、自分以外の「他者」の「主体性」をも尊重しなければならないという観念を自明的に内包することにもなるでしょう。
それはそれで厄介で面倒なコミュニケーションという問題を提起する信仰ではあるのかもしれません。
日本的な共同体の在りように、押しつけがましさや息苦しさを感じる向きもなくはないかもしれません。
しかし、それはまた、同時に、神道がユダヤ・キリスト教のような「戒律」を必要としない理由の一つでもあるのではないでしょうか。
なんとなれば、「他者」の「主体性」を尊重し、「気を遣う」ことの必要性は、「すべての人間は自由意志を持つ主体である」という命題に、上で述べた通り、自明的かつアプリオリに内包されているのですから。

アプリオリな他者の主体性の尊重。

自虐的な戦後日本の日本批判(むしろ非難・否定)にならされてきた世代には、あるいは意外に思われるかもしれませんが、実はこれもまたすこぶる日本的な「こころ」の一側面であり、むしろその根本でさえありうるのではないでしょうか。
posted by 蘇芳 at 01:33|  L 「日本のこころ」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする