2016年01月25日

「実現」の書


「古事記」に比べて、「日本書紀」は国家意識が強い、と、よく言われます。
それは事実かもしれません。
しかし、だからといって、非難がましい言われようをされなければならない理由が、どこにあるでしょうか。

国家意識≒国家の正統性を明らかにすることは、国家にとって当然に必要な作業です。
そのためにはその国家が何に拠って立つのかを明らかにする必要があるでしょう。
その国家の性格=国柄を根底において規定するものを、コモン・ローと呼ぶのかもしれません。
そして、こちらで述べた通り、日本におけるコモン・ローが、天壌無窮の神勅をはじめとする三大神勅であるとすれば、国家の正統性を明らかにする書とは、すなわち、尊皇敬神の書とならざるをえないでしょう。

「続日本紀」は「日本書紀」につづく六国史の第二ですが、その収録範囲は第42代文武天皇から、第50代桓武天皇(在位中)まで。これはすなわち「日本書紀」が完成(養老4年5月)し、読まれた時代でもありました。別の言い方をするなら、「書紀」の編者とされる舎人親王と、その子や孫が生きた時代でもあります。
仏教の蔓延や外国かぶれのインテリが跳梁するなかで、抗い、日本を守りぬいた、古代の「勤王の志士」たちの生きざまが、あるいはそこに読み取ることができるのではないでしょうか。

文武天皇は若くしてお隠れになり、皇統の男系男子継承を確実なものとするため、母・元明天皇、姉・元正天皇、二代の女帝による「中継ぎ」が行われ、皇位はつつがなく文武天皇第一皇子・聖武天皇へと継承されました。

しかし、聖武天皇は、仏教を信仰されました。
戦後教科書的な「歴史」においては、大仏建立や国分寺国分尼寺の建立は、輝かしい「業績」とされています。
しかし、「続日本紀」の語るところはどうでしょうか?
大仏建立と無計画な都の造営(首都を定めないまま複数の都を造営、百官に「どの都がよいか」とアンケートを取る有様です)によって、国庫は蕩尽され、震災や大火など度重なる災害に見舞われたのが聖武天皇の御代でした。
(現代的な感覚から言えば、生身の人間が天災の原因であるなどというのは不条理ですが、古代においては、君主の一挙手一投足が「社会」のみならず「世界」の運行に影響するとされるのは、日本にかぎらず、人類学的にわりと普遍的に見られる観念だとか)
聖武天皇の御代に権力を握った者たちが、世人の怨嗟の的になることは、自然の成り行きだったでしょう。
それは橘氏であり、親中派インテリの吉備真備であり、そして何より、仏教の僧正・玄昉でした。

これらの勢力に対してまず決起したのが、藤原広嗣でした。藤原といえば、すなわち中臣であり、忌部氏と並ぶ神祇氏族だったことはすでにこちらで述べた通りです。
広嗣は最終的に敗死しますが、形の上では朝敵であるはずの彼に対する「続日本紀」の記述は、意外なほどに好意的です。
広嗣が除こうとした君側の奸・玄昉は、専横を極めたあげくに失脚し、世人に憎まれながら不遇の死を遂げ、広嗣の祟りであると噂されたというのですが……そのような仏教僧の不名誉な噂が日本の「正史」にはっきりと記録されていることには、注目しておくべきでしょう。

やがて代が変わり、古代史最後の女帝・孝謙天皇(後に重祚して称徳天皇)の御代になると、橘氏も失脚、藤原仲麻呂が権力の座につきます。またしても藤原≒中臣です。
仲麻呂の権力掌握にもさまざまないきさつがありますが、それは他日に譲るとして、この孝謙(称徳)天皇もまた御父帝と同様、深く仏教に帰依されていたことは、ご本人の善意とは別に、神勅を奉ずる国家にとっては大きな問題があったのではないでしょうか。
それでも、仲麻呂の擁立する淳仁天皇(舎人親王第七皇子、天武天皇の孫)に譲位されたまでは、まだよかったでしょう。孝謙天皇もそれまでの女帝と同じ「中継ぎ」の役割をつつがなくお果たしになった、ということですんだはずです。
しかし、このころから、孝謙上皇に取り入る仏教僧がその影響力を増していきました。
悪名高い逆賊・道鏡です。
仲麻呂は道鏡の悪政を排除すべく、挙兵します(恵美押勝の乱)が、あえなく敗死。このとき、仲麻呂が擁立しようとした船親王、池田親王もまた、淳仁天皇と共に、「書紀」編者とされる舎人親王の皇子であったことは、運命的とも感じられるつながりです。恵美押勝の乱には、仏教僧・道鏡の専横に対する、尊皇攘夷の義挙という一面もあったのではないでしょうか。

しかしながら、仲麻呂の敗退後、船、池田、両親王は配流され、累はその他数多くの皇族にも及びました。
何より、孝謙上皇は、仲麻呂という後ろ盾を失った淳仁天皇を「廃位」するという、史上初の挙に出られ、自ら重祚して再び天皇となられ(称徳天皇)、ここに、道鏡の天下が到来します(その後、淳仁天皇は暗殺同然に崩御)。
このときの称徳天皇の詔はふるっています。
口に出すのも恐れ多い先帝天の帝(聖武)のお言葉で、朕に仰せられたことば、「天下は朕(聖武)の子の汝(孝謙)に授ける。そのことは言ってみるならば、王を奴としようとも、奴を王としようとも、汝のしたいようにし、たとえ汝の後に、帝として位についている人でも、位についての後、汝に対して礼がなく、従わないで不作法であるような人を、帝の位においてはいけない。また君臣の道理に従って、正しく浄い心をもって、汝を助けお仕え申し上げる人こそ、帝としてあることができるのである」と仰せられた。(宇治谷孟訳)
もはやコモン・ローもへったくれもない、父帝の御名を「錦の御旗」にした、皇位の私物化ではないでしょうか。
天壌無窮の神勅が「神勅≒命令」である以上、それに叛くことは、天皇であっても本来、許されないはずです。しかし、あえてそれを行ってしまわれたのが、仏教(道鏡)に惑わされた称徳天皇でした。

道鏡の時代には、さまざまな「改革」が行われ、陰謀・暗殺の類が横行したようです。皇族の血がこれほど多く流された御代も、珍しいでしょう。天武天皇以来の皇統はほとんど断絶するに近い状況となり、次の光仁天皇では、皇統は再び天智天皇のお血筋に戻ったほどです。
称徳天皇には姉妹もおいでになり、松虫寺の縁起など、説話的にも有名ですが、この方々もあまり幸福とはいいかねる御生涯を送られることになります。

そして、あたかも先の詔勅で予告されていたかのように、ついに勃発した極めつけの大事件が、いわゆる道鏡事件≒道鏡による皇位簒奪の企てでした。
天壌無窮の神勅を踏みにじる、皇室とは縁もゆかりもない、文字通り「奴を王とする」企てであり、これが実現すれば、それはすなわち大和朝廷の断絶、弓削王朝の創始を意味していたことは明白でした。
古代の仏教が、これほどの大逆をなすほどに、悪辣非道・無理無道の、「毒」をはらんでいたことは、後世の感覚とは区別して認識しておかなければならないポイントのように思えます。

この道鏡の企ては、和気清麻呂・広虫の弟姉によって、宇佐八幡宮の「神託」をもって阻止されたことは、知られているとおりです。
それは仏教の破戒僧に対する、尊皇敬神の士の勝利であり、端的に言って、「日本」の勝利だったのではないでしょうか。
(もっとも八幡神それ自体、複雑な習合形態を示す神様ですから、事はそう単純ではないとも言えますが……その八幡神の複雑さを可能にしたものこそ日本の日本たるゆえんであるとも、言って言えないことはないかもしれません。習合とは「不純」か「豊饒」か、私自身、判断に困って結論めいたものにも到達できずにいる点です)
「日本書紀」が書かれ、読まれた時代に、「日本書紀」の語る蘇我氏討伐にも似た、仏教勢力による大逆の企てが、八百万の神々のご加護で阻止された、この事件は、世の人々にどれほどの衝撃・感動をもたらしたことでしょうか?
こちらの記事のくりかえしになりますが、「日本はやはり八百万の神々を奉じる天皇の国なのだ」と、当時の人々は確信を新たにしたのではないでしょうか。

それゆえに、道鏡事件は語り継がれ、和気清麻呂は古代史最大級の英雄となり、やがては神として祀られることにもなったのでしょう。
しこうして、光仁天皇の御代には道鏡時代の悪政が一掃され、桓武天皇の御代には、平安遷都による南都仏教との決別も志向されます。
また、このあと800年にわたって、女帝の登極が見られなくなっていくこともすでに述べた通りですが……800年後、江戸時代に徳川の外戚化を防ぐために復活された女帝は、後に追号して「明正天皇」と申し上げます。この御名は800年前の女帝にちなんだものでしたが、その「800年前の女帝」とは、女帝としての中継ぎの責務を正しくお果たしになった「元」「元」の二代を指すのであって、孝謙・称徳天皇は、素通りされておいでになることからも、皇室にとって、奈良時代最後の女帝が反面教師的なイレギュラーな御存在であったことが、伺えるようにも思われなくはありません。

もしも「日本書紀」をして、外来仏教の「侵略」に対して、尊皇敬神の思想を説いた愛国の書であると仮定することが許されるならば、その「思想」の「実現」と「確立」は、道鏡事件に結実し平安遷都へと転回していく「続日本紀」にこそ記録されているのだと、言って言えないことはないのではないでしょうか。
そこには現代に至るまで歴史を貫いている尊皇敬神の「日本のこころ」が、苦闘の末に確立される、大切な始まりの「歴史」が、読み取れるようにも思えるのです。
続日本紀(上) 全現代語訳 (講談社学術文庫)
続日本紀(中) 全現代語訳 (講談社学術文庫)
続日本紀(下) 全現代語訳 (講談社学術文庫)
ラベル:続日本紀
posted by 蘇芳 at 02:26| 「続日本紀」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする