2016年01月23日

忘れ(させ)られた大戦


ローマにせよモンゴルにせよ、オスマントルコにせよ、「帝国」というものが、支配地域の住民が「臣民」としての在り方を守るかぎりにおいて、人種・民族・宗教の差異には意外と寛容である、というのは、よく言われることです。
しかし、そのような「帝国」が落日の時を迎え、版図を減少させていったとしたら、帝国の支配を脱した地域では、何が起こるでしょうか。
「帝国」の「臣民」という共通のアイデンティティをもって平和に共存・混住していた住民たちは、その「共有」の喪失とともに、異なる民族、異なる人種、異なる宗教というバラバラなアイデンティティに分断され、ほぼ必然的に対立が生じ、往々にして殺戮にまで至るのではないでしょうか。帝国時代に混住が進んでいればいるほど、地域によって人口比もまちまちになり、ある地域のマジョリティが別の地域ではマイノリティになる……という複雑なモザイクを現出するでしょうから、なおさらです。
独裁権力の消滅による民族紛争の現出と激化の最近の例としては、20世紀末のユーゴ崩壊も記憶に新しいところでしょう。それもまたユーゴスラヴィア≒「チトー帝国」の崩壊がもたらした混乱でした。

そのユーゴが存在したバルカン半島においては、それ以前にも、やはり、同様な混乱が現出していたようです。その火種が全世界に拡散され、日本もまた否応なくまきこまれていったのが、第一次世界大戦ではなかったでしょうか。

バルカンは黒海の出口、ボスフォラス海峡の片岸を形成する半島です。
ロシアやドイツ、オーストリアといった内陸の帝国にとって、黒海から地中海へ、大西洋へと船出するための重要な場所に位置しています。
当時のバルカン半島は、ロシア、トルコ、オーストリアの三大勢力の係争地であり、人種・民族・宗教の分布図も複雑化していったようです。
その海峡に位置するオスマントルコ帝国の当時の首都イスタンブールは、元をただせば東ローマ帝国の首都コンスタンチノープルだったのですから、なおさら、抗争は激しくならざるをえなかったことでしょう。

やがて、強大だったオスマン帝国が凋落の時を迎え、くりかえされる露土戦争に敗退を重ね、版図を失うようになっていけば、半島情勢の不安定さはいや増しに増していきます。。

第一次大戦の直接の引き金となったサラエボ事件の当時、ボスニアはオーストリア帝国の支配下にありました。ハプスブルグ帝国皇太子(正しくは皇儲)フェルディナンド大公のサラエボ訪問とは、権力誇示のセレモニーでもあったわけです。大公のサラエボ訪問が、よりにもよって、セルビアの重要な祝日である聖ヴィトゥスの日(6月28日)に設定されたことにも、象徴的な意味があったのでしょう。
もちろん、それはセルビアの民族主義者の神経を逆なでする行為であり、民族主義者やそれに偽装した共産主義者などなどのテロリストにとっては、格好の標的でした。

かくしてガヴリロ・プリンツィプの凶弾がフェルディナンド大公とゾフィー妃を襲うことになるわけですが……
この時点では、なお、それはハプスブルグ帝国とセルビアの二国間問題にとどまる可能性を保っており、欧州各国もそうなることを望んでいたようです。
英国やフランス、ロシアといった欧州各国は、ドイツによる二国間問題の仲介を期待したようでもありますが、当時のドイツ皇帝は、こちらでも名をあげたトラブルメーカー、ヴィルヘルム二世でした。

ドイツ国内にも穏健派はいたはずですが、詳しい経緯はさておき、ドイツはオーストリアの後ろ盾となり、和解の仲介をするどころか、どちらかといえばオーストリアをけしかける格好になったようです。
ドイツの助力をあてにしたオーストリアはセルビアに対して強硬姿勢を貫き、サラエボ事件の事後処理について、無理筋の要求をつきつけます。
これに対して、セルビアが後ろ盾として頼ったのが、ロシア帝国でした。同じスラブ人種というよしみもあったでしょうし、不凍港の入手を念願とするロシアにとって、バルカン半島への影響力を強めることには重要な意味がありもしたでしょう。
オーストリアvsセルビアの二国間対立は、ここに、ドイツ・オーストリアvsロシア・セルビアの対立構造に拡大されます。

しかしながら、この当時というのは、こちらでも述べた四国協商=ドイツ包囲網の時代であり、それに対するドイツの対抗策は誇大妄想的なシュリーフェンプランでした。
ドイツがそのプランを実行し、フランスを攻撃するならば……ロシアは、ドイツ・オーストリアという二カ国を相手に戦う同盟国フランスを助けて、直ちに参戦する義務を負っています。
また、「協商」とは言いながら事実上の軍事同盟と化していた英仏協商にもとづいて、英国も参戦せざるをえなくなるでしょう。
そして英国が二カ国以上の敵と戦端を開くのなら、日英同盟の条文に照らして、日本もまた、参戦せざるをえないことになります。

かくして、今から振り返れば悪い冗談のようななりゆきによって、戦火は欧州全土へと拡大、日本もまた「巻き込まれ」ていくことになります。
巷間、英国の求めもないまま、好戦的・侵略的な悪の帝国日本が、日英同盟を「口実」に参戦した、などともっともらしく誹謗されたりもしますが、これは意図的・無意図的な嘘であり、反日プロパガンダの類にすぎないと見たほうが無難でしょう。
何となれば、英国が日本に対する参戦要求を「出したり」「引っ込めたり」したことは事実ですが、決して最後まで「引っ込め」たままで終わったわけではないのですから。当初の混乱は、英国自身もまたこの大戦に「巻き込ま」れたことのあらわれであって、ひとたびその混乱を乗り越えて以後は、英国の対日姿勢は、参戦の要求・催促で最終的に固まったでしょう。それどころか、大戦が本格化するにしたがって、英国の参戦要求はエスカレートする一方だったようです。
日英同盟の効力範囲はそもそも「インド洋以東」でしたが、英国は日本に青島の攻略や太平洋の安全保障を依頼するのみならず、条約の範囲を超えて地中海までの遠征を求め(これは非常に感謝されました)、さらには陸軍の派兵も要求(これは断ってしまいましたが)、シベリア出兵も元をただせば英国の要請によって米国主導で開始されたものです。
英国はじめ連合国側から寄せられた対日批判は、ほとんど常に、戦争協力の不十分さに対するものと、そして、人種偏見にもとづく言いがかりだったことを、忘れてはならないでしょう。

日本においては、この英国の参戦要求によって、国論を二分した対立がくりひろげられました。
大隈重信・加藤高明の「英米協調主義」と、山縣有朋・原敬の「アジア主義」です。
この対立は一種の宿命だったかもしれません。
すでにこちらで述べた通り、日露戦争の勝利によって、一躍、欧米と肩を並べる地位に進出していた日本は、同時に、有色人種国家の盟主的な地位を期待され、自負する面もあったのですから。
日露戦争以後、潜在していた対立が、欧州大戦を機に、一気に顕在化したとしても驚くには当たらないでしょう。

さらにつけくわえるなら、ロシア革命が勃発し、史上初の共産主義国家ソビエトが成立したのも、この第一次大戦の最中のことです。
とすれば、こちらで述べたアジア主義と共産主義の結びつきがいよいよ緊密になっていく端緒もまた、この時代にあったはずではないでしょうか。

第一次大戦においては、大隈・加藤の決断によって、日本は辛うじて英米協調主義に踏みとどまり、戦勝国となり、国連常任理事国となり、名実ともに「一等国」となりますが……
これは「英米本意ノ平和主義ヲ排ス」と宣言した共産主義者(と目される)近衛文麿の敷いたレールに導かれるまま、アジア解放の「聖戦」に敗北した大東亜戦争とは、あからさまな対照をなす構図であると、いえはしないでしょうか?

戦後日本においては、第一次大戦は、日露戦争や大東亜戦争に比べれば、注目される機会が少なく、ほとんど忘れられているように思われます。はなはだしきは、愛国者保守主義者を自称する人たちによって、大東亜戦争は小村寿太郎のせいで起きた、などという、第一次大戦を無視して日露戦争と大東亜戦争を直結する暴論まで提唱されてしまう始末です。

歴史の中に「日本のこころ」を探し求めようとするのならば、日露戦争の輝かしい勝利が、大東亜戦争の敗北へと捻じ曲げられていく途上、その転回点となった可能性もある第一次大戦について、私たちは、もっと正しく知る必要があるのではないでしょうか。

そもそも、第一次大戦の時代に、共産主義国家の誕生、共産主義によるアジア主義の汚染、尼港事件などなどの事情が潜んでいるとすれば……その「都合の悪い」歴史をもみ消し、隠蔽し、歪曲しようとする者たちの意図とは、左翼的・共産主義的な政治性にもとづくものだと疑った方が、思考の出発点としては妥当ではないでしょうか?
その仕組まれた「忘却」の深淵から、第一次大戦の「参戦」と「勝利」の意味を取り戻すことは、「日本を取り戻す」ことを志す現代の心ある日本人にとって、喫緊の課題であるようにも思えるのです。
日英同盟 同盟の選択と国家の盛衰 (角川ソフィア文庫)
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真・戦争論 世界大戦と危険な半島
posted by 蘇芳 at 02:09|  L 第一次世界大戦 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする