2016年01月22日

思想書としての「日本書紀」

 

愛国者を自認する人たちのあいだで「古事記」はあいかわらず人気があるようです。
それはそれで素晴らしいことです。
しかし、だからといって「日本書紀」を軽視することがあってはならないでしょう。

本居宣長によって「古事記」こそが日本第一等の古典とされたといっても、単にそれ以前の人々に見る目がなかっただけだと切って捨てるわけにもいきません。
宣長によって「解読」されるまで、「古事記」はほとんど読むことさえできない時代が長く続いたのですから、それ以前の日本の歴史は「日本書紀」こそ第一等の歴史書・思想書と信じ、受容してきた人たちによって作られてきたはずです。
社会、政治、思想、歴史への現実的な影響力という点において、「日本書紀」の重要性を忘れることはできません。

「日本書紀」に描かれた時代、
「日本書紀」が読まれた時代、
現代の私たちから見れば、その両方が、大切な日本の「歴史」であるはずではないでしょうか。

「古事記」の収録内容は、一応、第33代推古天皇までですが、終盤の記述は簡略で、歴史的・物語的な記述は事実上、第23代顕宗天皇の御代で終わっています。
対する「日本書紀」が、第41代持統天皇の御代まで詳細な記録を残していることは周知のとおりです。

この「古事記」には収録されず、「日本書紀」にのみ収録された時代に起きた、思想史上の大事件といえば、仏教伝来を第一に挙げるべきではないでしょうか。

「古事記」には外来思想に汚される以前の純粋な日本固有の思想が美しい大和言葉で記録されている、と称賛することは容易ですが、では、そのような外来思想の襲来と、私たちの祖先はいかにして「格闘」し、その「やまとごころ」を護ったのか、という歴史は、「日本書紀」を読まなければ、見えてこない。逆説的に言えば、外来思想という比較対象を得たことで、日本固有の信仰や精神は、「日本書紀」後半の記述において、かえって見えやすくなっている、とさえ言って言えないことはないのかもしれません。

仏教伝来は第29代欽明天皇の御代。
仏教を真っ先に受け入れたのが、「逆賊」蘇我氏であったことはよく知られています。
(蘇我氏の所業について、異論を述べる人があることは承知していますが、ここでは客観的史実云々よりも先に、まずは「日本書紀」がその史実をどのように描いているかに注目しておきます。後世の人々に影響を与えたのは、知られざる真実の歴史とやらではなく、書かれた歴史≒読まれた歴史、でしょうから)。

欽明天皇ご自身は、仏教に対して態度を明確になさいませんでしたが、次代の敏達天皇になると、「日本書紀」には、
天皇は仏法を信じられなくて、文章や史学を愛された。(宇治谷孟訳)
と明記されています。
私見ですが、この記述は実はとても重要ではないかと思います。
なんとなれば、敏達天皇、用明天皇、崇峻天皇、三代が次々に崩御された後、用明天皇の遺児であった厩戸皇子(聖徳太子)も若くしてお隠れになると、推古天皇による中継ぎを経て、それ以降の皇統は敏達天皇のお血筋によって占められ、やがて大化の改新へと結実するのですから。

そもそも、推古天皇は蘇我馬子の姪であり、厩戸皇子(聖徳太子)は仏教を尊ばれました。
常識的に考えれば、この両者は、仏教を奉ずる蘇我氏にとって政争の具、傀儡であるべきはずでしょう。
しかし「日本書紀」の記述はそうはなっていません。
聖徳太子は「和を以て貴しとなす」の憲法を残されたばかりか、「日出づる処の天子」を名乗って仏教の本場に対等外交を挑まれる有様ですし、推古天皇もまた神祇を尊べとの詔を渙発されるわ、仏教徒の尊属殺人を厳しく咎められるわ、(仏教をもたらした)百済を叱責されるわ、馬子の要求をすげなく却下されるわ、と……
まったくもって蘇我氏の傀儡どころではありません。
あえていうなら、日本国の天皇として、そして皇太子として、正しく御振る舞いになったことになっています。
もっと言うなら、推古天皇は、仏教を奉じる蘇我馬子の姪というよりも、仏教をお嫌いになった敏達天皇の后として、御振る舞いになられたようにも見えなくはありません。

そしてその後も、「日本書紀」においては、第34代舒明天皇は「敏達天皇の孫」と、第35代皇極天皇は「敏達天皇の曾孫」と描写されていき、やがて、ついに、中大兄皇子の登場を見ることになるわけですが……
皇子を補佐して蘇我氏討伐に功をあげたのは、言うまでもなく、中臣鎌足。
この「中臣」という氏族が、忌部氏と並んで、侍殿防護の神勅・神籬磐境の神勅を受けた神々の子孫とされる神祇氏族≒神道祭祀を司る血筋であったことは、戦後学校教育的な「歴史」では、ほとんど教えられることがないようです。
(ちなみに、余談ですが、草薙剣を祀る熱田神宮のある尾張の大名・織田信長が、一説によると忌部氏の末裔とされ、伊勢神宮式年遷宮の復興のほか、尊皇敬神の事跡を数多く残していることも、戦後学校教育ではほとんど教えられることがなく、「天下布武」の意味性も理解しえなくなっているように思います)

要するに、「日本書紀」における大化改新とは、外国勢力・外来宗教と結託して日本乗っ取りを企んだ逆賊・蘇我氏を、日本古来の信仰・皇統を奉じる尊皇敬神の勢力が駆逐することに成功した、という、一種の「尊皇攘夷」の物語として記述されているのではないでしょうか。
もちろん、改新の詔においても、いの一番に宣言せられているのは、神道祭祀≒神祇の復興です。

この仏教≒外来思想と、神道≒日本固有思想の対立の構図は、「日本書紀」終盤の壬申の乱においても、くりかえされています。
長くなるので詳細は他日に譲りますが、大友皇子とその臣下たちが決起の誓いを交わすのは、「布の仏像(宇治谷訳。曼荼羅のようなものでしょうか?)」の前で、仏教の守護神たちに対してですが、対する大海人皇子の下へは、神がかりした臣下に口寄せして皇位継承の神託・神勅が下ることになっています。
また、神祇氏族中臣(藤原)も壬申の乱の後には復権し、持統天皇の御代には、藤原不比等によって後の権勢の基礎を確立することになるのは、よく知られていることでしょう。
付け加えるなら、天武天皇の御代には、広瀬・龍田の両大社、大祓など、神道祭祀の記述が飛躍的に増加している御代でもあります(この天武天皇の御代も律令「制度」という政治的側面にのみ偏向して記述されるのが戦後学校教科書的「歴史」ではないでしょうか。ちなみに、もう少し後世の呼び名になりますが、大祓詞の別名は「中臣の大祓」です)。

本当の真実の「史実」が、この「日本書紀」の記述の通りだったのか、今となっては、それは容易にわかりません。
しかし、このような記述のあり方をとおして、「日本書紀」が何を語ろう、伝えようとしたのか、その意図・思想・意味内容は、その記述そのものから、現代の私たちにも、十分に読み取ることができるのではないでしょうか。あえていうなら、それは歴史というよりは、文章をどう読むかという、読解力≒国語の問題でしかないのですから。

当然、「日本書紀」が成立して以降、奈良時代、平安時代の貴族たちも、この書の語るところを理解し、感受し、考え、信じて、彼ら自身の時代の歴史を形作っていったことでしょう。
奈良時代、それは聖武天皇、孝謙天皇(重祚して称徳天皇)が、御親ら仏教を信仰され、南都仏教が権勢を振るい、大仏建立や度重なる遷都によって国庫を蕩尽され、天変地異が相次ぎ、政争に明け暮れた時代でした。
その時代に起きたいくつもの争いは、戦後学校教科書的な「歴史」では、唯物的な権力闘争としてしか描写されませんが……
たとえば、藤原広嗣の乱は、吉備真備と僧正玄昉の専横を憎んで決起したものですし、藤原仲麻呂≒恵美押勝の乱は言うまでもなく道鏡の専横に対するものでした。
藤原が元は中臣であり、神祇氏族であったことは上で述べた通りですが、仲麻呂の乱の場合はさらに加えて、彼が擁立しようとした船親王、池田親王が、孝謙(称徳)天皇によって廃位された淳仁天皇とともに、舎人親王の係累であったことは、象徴的です。史実はさておき、舎人親王こそ「日本書紀」の編者として語り継がれている人物なのですから。

話がやや先走ったかもしれませんが……

後世の仏教はさておき、この時代の仏教はまだまだ危険な、親外国勢力による政権簒奪の道具であり、日本古来の国柄を貴ぶ勢力が懸命にその「侵略」に対抗していた様子が、古代の歴史書からは垣間見えるのではないでしょうか。その精神の支柱となったのが「日本書紀」の語る尊皇敬神の思想だったとすれば……
仏教僧・道鏡による簒奪の企てが、最終的に、宇佐八幡宮の神託によって阻止されたとき、同時代の人々にとって、それは「日本書紀」の思想の実現、ある意味、予言の成就とさえ見えはしなかったでしょうか。
日本はやはり神々を祀る天皇こそが安国と平らけく知ろしめされるべき国なのだと……その思想は、事実の裏打ちを得て、さらに強化され、それ以後の歴史を形作っていったとしても、驚くには当たらないように思います。

称徳天皇崩御後、践祚された光仁天皇の御代には、先帝の御代(道鏡の時代)に行われた数々の「改革」や人事が次々に取り消され、やがて次代の桓武天皇の御代には南都仏教との決別や大陸との交渉の縮小を意味する、平安遷都が行われ、国風文化の時代を迎えることになり……また、称徳天皇を最後に、この後800年にわたって、女帝の登極も見られなくなっていくのです。

もしも、「日本書紀」を、古代日本の国柄を護り抜き、その針路を決した、尊皇敬神の思想書として読むことが許されるのならば、そこにもやはり、何度でも振り返り、確認すべき「日本のこころ」を見つけることができるのではないでしょうか。
日本書紀(上)全現代語訳 (講談社学術文庫)
日本書紀(下)全現代語訳 (講談社学術文庫)
ラベル:日本書紀
posted by 蘇芳 at 02:08| 「日本書紀」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする