2016年01月19日

ドイツ皇帝と日露戦争


日露戦争の黒幕はドイツだ、という話があります。

富国強兵を目指す明治日本にとって、陸軍の模範と仰いだドイツは、重要な友邦である、はずでした。
しかし、ならばどうして、日清戦争終結後のあの三国干渉に、他でもないそのドイツが名を連ねていたのでしょうか?
欧州三カ国を向こうに回して一戦交えるわけにいかず、明治政府は干渉に屈し、かくして臥薪嘗胆の十年が始まることになるわけですが……
その裏では、単に名を連ねているだけではない、ドイツこそが三国干渉を主唱した発起人だと判明して、明治政府は実は激怒していたとも言われているようです。

日清戦争の勃発は1894年(明治27年)7月。
実はその同じ1894年、日清戦争に先立つこと半年の1月4日には、露仏同盟が締結されていました。
ロシアとフランスが軍事同盟を結べば、挟み撃ちの危機に陥るのは他でもないドイツです。
うろたえる独皇帝ウィルヘルム二世にとって、日清戦争は朗報だったことでしょう。
東西に長く、欧州とアジアにまたがるロシアは、東西両方の国境で同時に軍事的行動を起こすこと(二正面作戦)を極端に嫌う国です。
ロシアの関心をアジア方面に振り向けることができれば、独ソ国境の当面の平穏は保障されるでしょうから。

つけくわえると、黒海の出口をオスマントルコに押さえられている状況で、ロシア念願の不凍港を手に入れるには内陸のドイツと事を構えるより、直接海に面したアジアの「野蛮国」を征して南下するほうが、手っ取り早いと思われた、というロシア側の事情もあったのかもしれません。

かくして三国干渉を機に、ロシアは李鴻章を賄賂漬けにし、事実上の満州の割譲を受け、鉄道を敷設、アジア進出を本格化させていったようです。
日本が三国干渉に屈したのを見て、得意の事大主義を発揮した李氏朝鮮がロシアに媚びへつらい、自ら国土に招き入れるような姿勢を示したことも、露皇帝には幸いと見えたかもしれません。
やがて北清事変、龍岩浦事件を経て、日露国交断絶の時を迎えたのは、知られているとおりです。

陸の乃木希典、海の東郷平八郎、外交には小村寿太郎をはじめとする鉄壁の布陣をもって、日本がこの国難を乗り切り、アジアをはじめ中東、アフリカの諸民族にまで勇気と希望、独立への気概をを与えたことも、最近はよく語られるようになってきました。
エルトゥールル事件で有名なトルコと日本の友情のはじまりも、共通の敵ロシアに対する輝かしい勝利が影響していることは、論を待たないでしょう。
植民地各国からの留学生がこぞって日本を目指し、日本に学ぶようになるのも、この頃からのことだったかと思います。
それこそはこちらでふれたアジア主義が、さらに範囲を広げた「大アジア主義」へと拡張されていく端緒でもあったかもしれません。
ロシア領内のイスラム教徒のなかには、日本を改宗させ、盟主とすることを一時は本気で考えていたという話さえなくはないようです。

しかし、有色人種の台頭は、白人種にとっては脅威以外の何物でもなく、困ったことに、日本の同盟国・英国にとっても、そうでした。むしろ世界最大の植民地保有国=日の沈まない帝国であった英国にとってこそ、その脅威は深刻だったはずです。
必然的に、日本は、これ以降、「アジア・有色人種のリーダー」と「英国の同盟国」という二つの立場のあいだで、引き裂かれていかざるをえなかったのかもしれません。

その日本の難局を、さらに煽りたてた人物の一人は、またしてもドイツ皇帝ウィルヘルム二世でした。

ドイツにしてみれば、まんまとロシアをアジア方面にけしかけて、露仏同盟の脅威を緩和することに成功したはずが、予想もしなかったロシアの敗退で、状況は振り出しに戻った……どころの騒ぎではありません。
1904年(明治37年)4月8日、日露戦争開戦の約二カ月後には、英仏協商が結ばれていました(この協商自体は戦端を開いた日露両国、そのそれぞれの同盟国である英国とフランスが、この戦争に巻き込まれないようにするために結んだ紳士協定的性格を持っていたようです。少なくとも当初は)。
さらに日露戦争の二年後、1907年には、昨日の敵は何とやらとばかり、日露協約まで成立してしまいます。
日英同盟・英仏協商・露仏同盟・日露協約。
ここにおいて四カ国の協調関係はその円環を閉じ、完成。
ドイツは、この「四国協商」に「包囲」される格好になっていたのですから。

日露戦争終結の年、1905年に策定され、第一次大戦で実際に発動されることになる、ドイツのいわゆるシュリーフェンプランが、ベルギーやオランダの国境を侵犯し、フランスを鎧袖一触で打ち倒し、後顧の憂いなく(英仏協商にもとづく英国参戦の可能性を無視して)、180度転進してロシアを撃ち破るという誇大妄想的な計画にならざるをえなかったことにも、当時のドイツの窮状・危機意識があらわれているのかもしれません。

また、この頃から、ウィルヘルム二世は日本を主眼においた「黄禍論」を盛んに喧伝するようになり、それによって醸成された反日世論は、人種差別と植民地支配に依って立つ欧州各国に容易に受け入れられ、かつまた、日本を敵視する特定のアジア国家にも効果的なプロパガンダ・離間工作の道具として利用されていくことにも、なっていったのではなかったでしょうか。

実力をもって白人国家を打ち破った史上初めての有色人種国家、という、幕府や維新の志士が思い描いた「大攘夷」の最初の達成ともいえそうな、日露戦争のこの輝かしい勝利は、同時に、人種対立の深刻化・表面化というさらなる波乱の予兆をも孕んでいたのかもしれません。
そこで果たした「敵」としてのドイツの役割も、しっかりと見据えておく必要があるように思います。
何といっても、このあとにつづく二度の世界大戦においても、ドイツはさらに重大な惨禍の淵源の一つとなってゆくのですから。
posted by 蘇芳 at 01:52|  L 日露戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする