2016年01月18日

アジア主義と共産主義


最近は大東亜戦争について肯定的な見解を目にする機会もようやく増えてきたようです。

インドのチャンドラ・ボースやパール判事はもちろん、
台湾やパラオに残した日本人の「功績」も、
インドネシア独立戦争(スラバヤ戦争)に果たしたF機関や残留日本兵の貢献も、
ビルマ(ミャンマー)独立に果たした日本の役割も、
明治以来、アギナルドやリカルテやラウレルと共にあったフィリピン独立への支援も、
マレーシアの高官たちが残した日本への感謝の言葉も、
サンフランシスコ講和条約においてスリランカが日本に示してくれた厚意も、
その他その他、現在にまでつづく「親日国」の美談とともに、ネットや書籍で大っぴらに語られ、ひと頃に比べれば、広く知られるようになってきたのではないでしょうか。

それ自体は、とても健全なことには違いありません。
しかし、その傾向があまりに行きすぎて、歴史を単純化しすぎる結果になることには、警戒も必要ではないでしょうか。

明治以来、スペイン、アメリカからの独立のために日本の支援を求め続けたフィリピンは、なぜ、東京裁判ではあのような愚劣な態度を示したのか?
同盟国タイは、ビルマのアウン・サンは、なぜ最後には日本を裏切ったのか、裏切らなければならなかったのか?
そして何より、ベトナム残留日本兵は、なぜ、共産党と共に戦うことになったのか?

これらは、単純な聖戦史観だけでは見えてこない複雑な事情を孕んだ問題ではないでしょうか。

そもそも、最初に列記した大東亜戦争の「美談」を好んで語る人たちは、ラオスやカンボジア、ベトナムについては(これらは戦後に共産化した国々ですが)、不思議なほど口数が少ないようにも思えます。
当時フランスの植民地だったそれらの国々(フランス領インドシナ、または仏印)は、日本がそこに(平和的・合法的に)進駐したことによって、日米戦争勃発の直接の導火線となったともいわれているほどの地域であるにもかかわらず、反日史観の持ち主のみならず、愛国保守派を任じる人たちによってさえ、あまり積極的には語られない気がするのは、なぜなのでしょうか。
インドネシア残留日本兵の活躍を誇らしげに語り、映画化(ムルデカ 17805 スペシャル・エディション [ 保坂尚輝 ])までするような人たちが、同じく残留日本兵が活躍したベトナムのこととなると、この時代について口を閉ざし、明治にまで遡って美談を探してこなければならないのは、いったいなぜなのでしょうか?

ベトナムについてなお言葉を重ねるとすると……
すでに欧州の初戦においてナチス・ドイツに降伏していたフランス・ヴィシー政権は、日本にとっても、表向き敵国ではありませんでした。
南部仏印進駐はフランスの合意の下、平和的に行われ、これはそのお人好しかげんによってフランスを驚かせるとともに、独立のために日本の助力を期待していたベトナム人を落胆させることになったようです。
その間隙をぬって、ベトナム独立のための組織的運動の母体として浸透していったのが、共産主義勢力だったようです。
日本が仏印の武力処分=独立支援に踏み切るのは、大戦も末期、大東亜会議開催後のことでした。
しかしながら、大東亜戦争の敗戦によって、日本主導のベトナム独立は頓挫。後を引き継いだ勢力が共産党であり、残留日本兵もまた彼らとともにフランスと、やがては米国とも戦うことになっていきます。
ベトナム戦争において、米軍を苦しめたゲリラ戦法は、元をただせば陸軍中野学校出身者が手ほどきしたものだと、言う人もあるようです。
ベトナム戦争の当時は、日本をはじめ、世界中の知識人や若者が共産主義に徒な夢を見ていた時代でした。ベトナム反戦運動は米国はもちろん、日本でもくりひろげられましたが、その中核を担っていたのは、共産主義者や社会主義者といったいわゆる左翼陣営の人たちではなかったでしょうか。
象徴的かつ大げさな言い方をするならば、ベトナム戦争当時、残留日本兵は、本多勝一や小田普や、その他多数の左翼人士たちと、反米闘争において間接的に「共闘」することになってしまった、のではなかったでしょうか?

なぜ、そんなことになってしまったのか?

大東亜戦争を語るさいには、やはり、共産主義の問題もまた、見落としてはならないのではないかと思えるのです。

1995年、米国においてヴェノナ文書が公開され、ルーズベルト政権の政策決定にソ連の工作員の関与・影響が大であったことが明白になり、それまでにも語られてきた「疑惑」が「証拠」によって裏付けられることになりました。
日本においても、そのころから、ゾルゲ事件や近衛文麿の「正体」について、公刊書籍やネット上の動画で大っぴらに語る人が増えてきたように思います。砕氷船理論や敗戦革命についても、かなり人口に膾炙してきているのではないでしょうか。

ソ連の謀略を暴き、共産主義の危険性を認識する。
大東亜戦争の歴史を正しく把握する上でそれはどうしても避けては通れない作業であるように思います。
なおかつ、さらにくわえて、日本が、そして米国が、当時、どうしてそうも易々とスターリンの「謀略」に操られてしまったのか、そのことも解明する必要があるでしょう。
日本が、米国が、スターリンに「つけこまれた」のだとしても、つけこまれるにはつけこまれるだけの「隙」があったのではないでしょうか。それは何だったのか?

米国においては、新興国としての領土や利権の拡張といった侵略的・覇権的な欲望があり、その欲望を正当化するための人種差別的、あるいはキリスト教的「道徳」の存在があったかもしれません。
一方の日本においては、明治維新の「大攘夷」以来連綿とつづく、欧米列強への対抗意識、その拡張としての人種差別撤廃、東亜解放の「大義」、アジア主義という「情念」があったのかもしれません。

中川八洋などの保守論客によって、共産主義売国奴として指弾される近衛文麿が、アジア主義者・近衛篤麿の息子であったことは、象徴的な事実であるように思います。
「大東亜解放」の「聖戦」は、「帝国主義打倒」の「革命」と、ある種の親和性を持ちえたのかもしれません。
とすれば、その「革命」のイデオロギーが、実は、世界制覇の邪悪な欲望を糊塗する二枚舌の表看板にすぎなかったことが、アジア主義者たちの誤謬であり、不幸だったのでしょうか……?

大東亜戦争。そこには、アジア主義の「理想」と、英米協調主義という「現実」的要請に引き裂かれ、共産主義の禍毒に翻弄された、痛ましい「日本のこころ」が、見つかるのではないでしょうか。
戦後70年を経て、私たちは、あらためて、その歴史を見つめなおすべき時期を迎えているのではないか、とも思えるのです。
posted by 蘇芳 at 01:36|  L 大東亜戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする