2016年01月17日

【動画】「日本のこころ」 祓 (はらい)

    

日本のこころ」シリーズ。



動画概要:
2013/04/15 に公開
生命を尊んだ日本人は、身と心の穢れを祓い、清らかさを大切にしました。

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生命が輝くことを願い、禊祓(みそぎはらえ)などで身心を清めてきた日本人

自然の恵みの中で生きてきた日本人は、神々の産み出した生命がより輝くことを願ってき­ました。
そのために人々は、常に身と心を清め、穢れを祓い、心身ともに清らかに生きようとして­きたのです。現在でも、神社の参拝にあたり手水舎で手や口をすすいでお清めをしますが­、これらの禊祓の行事は、日本の神話にその起源があります。亡き妻・伊邪那美命(いざ­なみのみこと)に会うために黄泉の国に出向いた伊邪那岐命(いざなぎのみこと)は、そ­こで死の穢れにふれたため、「筑紫の日向(ひむか)の橘の小門(おど)の阿波岐(あわ­き)の原」で身を清めました。そのとき、杖や衣服を投げうち、水に入って身をすすぐと­次々に神々が生まれました。左目をすすぐと天照大御神(あまてらすおおみかみ)が、右­目をすすぐと月読命(つくよみのみこと)が、鼻をすすぐと須佐之男命(すさのおのみこ­と)が誕生したのです。
穢れを祓い、清らかに生きることが何よりも尊いことであると考えてきたのです。

「平成25年秋 第62回 伊勢神宮式年遷宮」
http://www.sengu.info/

Present by 伊勢神宮 式年遷宮広報本部(制作2012年12月)

聖書には失楽園≒原罪の観念があります。
仏教には六道輪廻≒業の観念があります。
それらの信仰において、人は生まれながらに「罪」や「業」を背負っています。

その人間が生きている現世=この世は、
聖書においては、エデンからの追放先であり、
仏教においては、「苦界」であり「穢土」です。

人間も、人間が生きる世界も、本質において、否定的に見る見方が、それらの信仰の原理的な部分には、潜んでいないでしょうか。

だからこそ、それらの信仰は「救済」を志向します。

それらグローバルな創唱宗教において、すべての人間は「救済」“されなければならない”存在です。
すべての人間が救われなければ「ならない」のは、つまるところ、すべての人間は「救われていない」「悲惨な状態にある」と、彼らが見なしているからにほかなりません。
人は、その本質において、「救済」してあげなければならない、哀れな、惨めな、かわいそうな、卑小な存在である、というのが、それら創唱宗教の人間把握の重要な一側面であるように思います。
仏教はそれを「凡夫」と呼び、キリスト教なら「子羊」と呼ぶのかもしれません。

しかし、神道の人間観は、どうでしょうか?

こちらで見たとおり、島も木も水も火も、動物も人間さえも含めて、神羅万象が神々と直接的な血縁を持つ「神々の子」であるとするのなら、それらが生まれながらにして「罪」や「業」を背負った、哀れで、惨めで、かわいそうな、卑小な存在である、というのは、道理に合わないことになります。
そもそも、神道は自然崇拝の性格を持ちますが、その自然=この世が、「苦界」や「穢土」や「流刑地」であるのなら、どうして、それを「崇拝」することができるでしょうか?

島も木も水も火も、動物も人間さえも含めて、神羅万象が神々によって「出産」された「神々の子」であり、本質的に清らかである、と考えるのが、神道の自然観・人間観であるように思います。

もちろん、人間ですから、生きているうちには、さまざまな過ちや罪をおかすこともあるでしょう。
神々でさえ、「天つ罪」をおかすのが、記紀の世界でもあります。
しかし、上記のような自然観・人間観を踏まえれば、それらの過ちや罪は、ユダヤ・キリスト教のような、「存在の本質」としての「罪」というほどに、深刻かつ本然的なものではないはずではないでしょうか。

俗に「魔がさす」と言いますが、神道においては、人間の存在そのものが「罪」なのではなく、本質的には清らかな人間が、たまたま、つい、うっかり、何かの間違いで「しでかし」てしまうのが「罪」であり、それは聖書的な意味での「罪」よりは、むしろ「間違い」や「失敗」と言ったほうが感覚的には近いものでさえあるのかもしれません。
何といっても、「天つ罪」をおかした素戔嗚尊さえ、その罪の代償を払った後は、八岐大蛇を退治する英雄となり、「清々しい」心を取り戻すことができてしまうのが、記紀の世界なのですから。

要するに、罪、穢れといっても、最初から汚いのではなく、元はきれいなものに後から汚れが付着しただけであって、払ったり拭いたり洗ったりして「お掃除」すれば、再びきれいな状態に戻すことができてしまう、という……
乱暴に極言してしまえば、それが「穢れ―祓い」のシステムなのかもしれません。

もちろん、仏教やキリスト教であっても、厳しい原理原則に固執するだけでは、広く一般には受け入れられにくいですから、伝播の過程で多かれ少なかれ世俗化・大衆化していくでしょう。
その「大衆化」が、創唱宗教以前の、民族宗教的な世界観への接近をもたらすことは、ほぼ必然であるように思います。
たとえば仏教において、小乗仏教はまもなく廃れ、大乗仏教が現れ、そこでは「草木虫魚悉皆仏性」という肯定的な自然観も出現します。
しかし、なお「仏性≒解脱の可能性」を持つという話にとどまっており、その仏性が花開き実現するのは、あくまでも、現世ではなく、涅槃への到達においてでしかありません。
現世そのものが「浄土」であり、神羅万象の清らかな本質はこの現世において開花しうる、むしろすでに常に開花している、とまでは、仏教の教義上、なかなか言い難いものがあるのではないでしょうか。

にもかかわらず……
春は花 夏ホトトギス 秋は月 冬雪さえて すずしかりけり
というのは、道元禅師の有名な和歌ですが、本来、この世を「苦界」であり「穢土」であると見なさなければなならいはずの仏教のお坊さんが、どうして、こんなにもこの世界、自然天然を肯定する歌を詠むことができたのでしょうか? 「厭離穢土」の教義は、どこへ行ってしまったのでしょうか?
それは道元が日本人であり、知らず知らずのうちに、神道的な自然観・人間観を身につけていたからではないか、と、考えるのは、牽強付会でしょうか?

世界を、自然を、人間を、生まれながらにして、その本質において清らかなものであると観じる、
だからこそ、一時的に穢れても、祓い、清めれば、元通りの清らかな本質に回帰することができると考える、
……そこにもまた、大切な「日本のこころ」が見つかるのではないでしょうか。
posted by 蘇芳 at 01:34|  L 「日本のこころ」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする